あとがき

僕には孤独の時間が必要だということは、わりと真面目に気づいたのが今日だったりしました。

ここ数日のことを言いますと、いろいろな人の手を借りつつ、ほぼほぼひとりぼっちで過ごしておりました。

今から思うとその時間は架空の小説の主人公をなぞるように、僕にはそれぞれのシーンが感情的に光って見えたのですが、おそらくこのような話をしたとしても僕の周囲の誰もが理解を示さずに首を振ることは間違いありません。

未だにこの数日僕を支えてくれた人々には顔も合わせておらず、次に目が合ったときには中指を突き立てられる可能性もわずかながらに残されているということでありまして、僕はこのような文章を書く気になった今でも恐怖心が若干の影を落とします。

まあ、正直自分はクソ野郎なので、いつ何時誰かしらから中指突き立てられても文句言えないですね。

そういうことをあまりしない友人たちに囲まれているので僕は非常に生きやすく思います。

架空の小説ならば、僕がそれを物語に書き起こしてしまえばそれは僕の著作になり得る、そう思いましたがあまりにもその話は汚く、また馬鹿馬鹿しい話であることは百も承知ですので、僕はそれを脚色するのさえ躊躇われました。

僕がそれを形にするのには多分『漬け込み』の時間が必要だと思われます。

ただただ、それが存在しなかったとは言えず、そこにあったことを示すことは僕の中ではとても重要なことで、僕がそれを僕の作り上げた純粋な一つの物語だとすることで、それに対するあとがきくらいは書き添えておいても悪くはないだろうという気持ちになりましたのでここに『あとがき』という本文のない文章が作成されることと相成りました。

くれぐれも遺書の類いではないことをご承知おきください。

 

さて、僕はこの間、授業の中でヒュームという哲学者の話を聞きました。

最近の僕は疲労感に苛まれていて、午前中の授業で意識を保つことの困難さを恥ずかしげもなく衆目に晒してしまうことを悩みとしていました。

このように小難しく言ったところで僕の自己管理のまずさというか、杜撰さのようなものは全く隠れず、素直に反省するしかありません。申し訳ないところであります。

というわけで、僕は自分しかいない空間の中にいました。

一般的に言う夢という現象に属する空間です。

ヒュームという哲学者の思想が、その空間の中に微かに流れ込んできます。

人間は知覚によってのみ、外界との接触を果たすことが出来る。

僕は、外界というものがこういう空間の外のことだろう、とすぐに思ったわけではありません。

ただ、その思想が僕の生来持っていた感覚、この空間にも適用されるような感覚に、非常に近いものだと思いました。

その後の、知覚の分類などの話の間、僕はずっと一人で考えていました。

外界との接触。

手を伸ばすこと、触れること、そこにあると思うこと。

そのすべては知覚によって定義されています。

膨大な僕の知覚すべてを、電気による刺激によって生成することが出来たなら、おそらく僕の脳みそは電極に繋がれて液体の中で浮かんでいるだけで事足りるのです。

その発想は、おそらく僕は小学校に入ったときにはもう持っていたのだと思います。

僕の小学校の六年間のひとりぼっちの楽しみは、僕の知覚の中にある大人の知らない『バグ』を見つける日々に費やされていたからです。

日常をデバッグすること、それ自体が僕にとってはとても面白く、また高尚なものに思えて仕方のない僕は、極めて自然に様々な日常風景に目を光らせて、その違いを誰にも知られることなく密かに探していました。

その最たるものは『路地裏』の観察でした。

路地裏を覗き込んだ瞬間、最も僕が路地裏を覗き込みそうにないタイミングで路地裏を覗き込むことができたならば、僕は動くことのない、固まった世界を見ることができるのではないかと想像を膨らませて毎日ひたすらに路地裏を覗き込む少年でしたが多分誰にも怪しまれてはいないと思います。

まあ、そんなわけで、知覚だけで事足りる世界というものを早々に考えることが出来ていたため、僕はそのヒュームの思想をとても身近に捉えることができていたのでした。

ところがその夢の中、外から流れ込んでくる言葉はこうも問いかけます。

「では、その自分とは何だ?」

「電極に繋がれて浮かんでいる君の脳みそはどこにあって、なぜそうなっている?」

「なぜ多くの知覚が架空のものだと判別できると解釈した今でも、自分の存在を疑うことは辞めないのだ?」

僕は弱ってしまいました。

小学生男子の時代からおそらく何も成長していない僕があぐらをかいて首をひねって、しきりに考えている様子が脳裏に浮かびました。

「なぜ自分は特別なのか」

その問いには、答えられなかった。

時間という医者は僕に投薬治療を施します。

麻酔のように効いていく薬は、僕の脳みそに一定の刺激を与え続け、完全ではないまでも僕は自分が特別だと思うことを恥ずかしいと思うようになったのでした。

僕の中には特別な小学生がいて、それを覆い隠すようにほこりが積もった今でもまだ、小学生は息をしていたのでした。

 

全く話は変わってしまって、次は僕の知覚世界のことを話します。

知覚世界は僕が認識する世界のすべてですが、その奥に脳内世界があります。

僕の脳内世界の中には常に一筋の言葉が流れています。

日常の中にいるとき、僕は目に映る文字を脳内で読み上げています。

言葉を意識して聞いているとき、読み上げの言葉は誰かの言葉に取って代わります。

そのどちらでもないとき、僕はただ、自分の中で言葉を紡いでいます。

例えば美術館に行ったとき。

きっと人々は絵を見ます。

僕も絵を見ます。

しかし、僕の頭の中では常に言葉が流れています。

おそらく僕はこの理由から美術品を見ることに長けていません。

混雑した美術館では、僕は周囲の人間の言葉が気になって仕方ないのです。

脳内の言葉、読み上げの言葉、耳から入る言葉、の順に強く感じるものなので、ざわざわした環境では僕は集中して絵を見ることがほとんど出来ません。

騒がしい場所では本を読むことも難しく、うるさい喫茶店で何の助けもなく本を読むというのは僕にとってかなり難易度の高いことです。

そのような理由で、僕は混雑した美術館では音声ガイドの力を借りて、各所の見るべきポイントを順番に指摘されながら確認していきます。

音声ガイドがない場合は、耳慣れた音楽をイヤホンで精一杯流しながら歩くことが多いです。

人の少ない美術館と同じだけの効能が得られるときがあります。

さて、人の少ない美術館で、僕の頭の中では自分の中だけの言葉が流れています。

ここで、絵の印象を文学的に形容するとどうなるか、などということが思い浮かぶのはかなりまれなことで、自分の中だけの言葉というのは、実際は会話文や説明文などといった、口語体で語られます。

この絵を見た感想が、僕の知り合いの口から語られる、ように感じます。

僕がこの絵を見たと友達に語るときの文章がつらつらと綴られます。

僕と、身近な誰かの架空の会話によって、数分間眺められたその絵は形容され、感想となります。

『どちらでもないときの言葉』というのは、実際のところ僕と身近な誰かの架空の会話文で出来ています。

そのどちらでもないときのことを、僕は孤独の時間と呼ぶことにしました。

 

孤独の時間に話される会話文は、架空のものです。

その登場人物たちの思ってもいないことが僕の頭の中には極めて普通に発言されます。

孤独の時間が長ければ長いほど、彼らはいろいろなことを僕に語りかけてくれます。

僕はそれにとても長い文章で応答するので、そんなことをしていると一時間は軽く過ぎていきます。

それらの会話、『妄想』、は、実際に彼らが話したわけではないのですが、彼らが存在しなければ僕の脳内では発言され得なかったことでもあります。

架空の人間が僕に語りかけたことは、おそらく僕と幼児期を共にした「わくわくくん」「どきどきちゃん」という名の、僕の脳内にしか存在しなかった架空の二人だけでしょう。

自分の創作したキャラクターがしゃべるとは言いますが、こんなにはっきりと話しているのは聞いたことがありません。

妄想の中の友人たちは、とてもはっきりと、本当の友人たちにはありもしない自分の意見を言うのです。

ありもしない意見ではあれ、何度も言いますが彼らの存在なくして僕の脳内での発言は確認されないのです。

 

妄想の中の友人、本物の友人、隔てているのは僕の脳がどう認識したかという違いのみ。

実際、記憶力の非常に乏しい僕は、妄想の中でかつて言われたことを本当に言われたことだと認識してしまったりします。

そうなってくるともうそこに違いはなく、ただ薄らいだ印象のようなものだけが残るのです。

違いがあると言えば、ただ一つ。

孤独の時間は寂しいのです。

会話とは言えどこまで行っても僕の独り言です。

本当に自分と違う人間が考えて発声したこと、自分が考えたこと、その違いは僕が寂しいと思うかどうか。

もはや基準でもなんでもなくただの僕の「そう思うなあ」を文章にしているだけです。

他者の発話は、僕にそこに生きた人間がいることを教えてくれます。

それがどんな衝突を生む僕にとって苦しい言葉だったとしても。

僕の脳内で生成されたわけじゃない、慣れない文章のリズムが僕を安心させます。

その寂しさの非存在が、他者と自分との乖離を示して、相対的に僕にとって僕は特別でいられるのです。

 

なんだか本当に長い文章になってしまいました。

紆余曲折がありすぎて僕は少し悩んでいます。

僕の脳内にいる妄想の友人を出現させてくれる結構な数の本物の友人には感謝したいと思います。

 

 

孤独の時間がめっちゃ寂しいやん?という話でまとまってしまって、すごくなんか当初の計画とずれてて悲しいです。

孤独の時間がないと僕は多分小説が書けません。

ここについて深く掘り進めれば良かった。

路地裏デバッグとかどうでもよかった。

でもまあ仕方あるめえと思います。

この文章をこれ以上延ばす気も無いです。

てなわけで、2017年の11月上旬までのあとがきが終わります。