飛行機雲の白さ

カーテンを開けた。

久しぶりのことだった。

外はいつもと変わらない朝だった。

私は埃が溜まった窓の桟をティッシュで拭き取る。

驚くほどティッシュが茶色くなるから、自分の無精がバレていくようで恥ずかしい。

ティッシュを何枚も引っ張り出して拭いていると、空の雲がちぎれた隙間から日の光が差してきて思わず顔をしかめた。

眩しい日の光。

この社会にいる以上は仕方のない日の光。

私は日の光があまり得意な方ではない。

それでもマイノリティを主張するとマジョリティに貶される。

そんなわけでマジョリティの振りをしながら、今日も目覚めたのだった。

 

お腹は空かないので朝ご飯の時間を削って部屋の掃除をする。

今日は彼が来てくれる日なのだ。

一人きりのワンルームにはそれほど荷物はないが、働き盛りのOLの家はそれなりに汚くなる。

今日はゴミ出しまできちんとする。

着替えや化粧やそういったものを全部終えて、ゴミの大袋を二つも持って、マンションの鍵を閉めて家を出る。

マンションの共同ゴミ捨て場にゴミを捨てて、ゴミ捨て場の匂いを気にしながら私は会社に向かった。

大好きなおばあちゃんに「行ってきます」を言うことは忘れない。

 

会社に行く途中の電車の中から、窓の外を見ていた。

満員電車に押し潰されながら、スマホを見るでも本を読むでもなく、ただ窓の外を見ることしか出来なかった。

窓の外を飛行機が飛んでいて、飛行機雲が流れていた。

優雅に飛ぶその姿を、羨ましく思いながら見ていると、カーブで背中をグニリと押される。

飛行機雲に憧れたことを、世間様に怒られてしまったような気分になった。

 

10月は半ばを過ぎて、私が一番生きやすい気温の日々が続いている。

暑くもなく寒くもないこの時期が、一番心地よい。

冬は寒いし夏は暑い。

春は花粉がひどいからつらい。

私の好きな季節は一年のうちひと月くらいだ。

 

出勤時間の10分前に会社に着くと、嫌いな上司と目が合った。

嫌らしい笑みを浮かべながら、よう、と挨拶をされたので、おはようございます、と伏し目で返事をした。

「なあ、お前明日から有休?」

上司は私の有休取得にお怒りのご様子だった。

「ええ、まあ」

私は極めて素っ気なく返事をする。

「なんで三日も有休取ってんの?」

「残ってたので」

上司様には私にため口で質問をする権利があるということはこの社会では自明の理であるらしい。

私にはその権利がないこともまた、自明の理。

「ふーん、じゃあお前その三日分働けよ」

私に対して命令することも許されている。

その前に、と私は返事をする。

「朝礼前にお手洗いに行かせてもらってもよろしいですか」

 

私の仕事は健康食品を販売する会社の経理担当だ。

私のような花のない女子にぴったりの仕事だと上司は形容していた。

何とでも言えば良いと私は思っている。

この会社に来なければ彼に会うこともなかったので私は満足している。

 

彼はこの会社の商品開発部の研究員である。

SNSで偶然知り合って、ずっと仲良くしていた相手が偶然同じ会社だったので、そのままリアルでも良く会うようになった。

お互い給料が少なく、周りに囃されるのも嫌だったので結婚などと言った浮かれた話は一度もなかった。

それでも話が合う私たちは頻繁に会っていた。

 

昼休み、私は周囲の女子社員たちと少し急いで昼食を取った。

午後の少し早い時間に税理士さんとの会議があるので、急ぎ気味だったのだ。

最近の彼女たちの話題の中心は、営業部の新人さんがイケメンだということである。

いわくその新人さんは、顔だけでなく性格や業績も抜群だそうだ。

でも彼女たちの総意は、「同僚の給料なんて高が知れている」ということらしい。

私にもそれが理解できてしまう程度の職場だったのだ。

 

髪の白い税理士さんはいつもの通りに杖をつきながらゆっくり来た。

毎度のことながら時間はぴったりなので、なおさらこの人は事務所を何時に出たのだろうと思うほどに、いつもゆっくりゆっくり来る。

私にとって偏屈なおじいさんという印象が強いその人は、それでもきっちり定時になると仕事が済んでなくても帰っていくので私は嫌いじゃない。

「はい、それじゃあね、来月までにこの書類作っておいてね」

とそんなことを言い残すと今日の会議も淡々と終わった。

「玄関までお送りいたします」

「あ、じゃあ悪いねえ」

無理に苦手なことを一人でやらないことは大人の条件だと思う。

「なんだか、君、今日は楽しそうだね」

普段雑談をあまりしない人だと思っていたので私は少し驚く。

「そうですか?」

「うん。これから良いことが待ってるみたいだ」

年を取った人特有の見透かしたような言い方が、私のおばあちゃんによく似ていた。

私が同じようになることはできないのだろう。

私はそういう目線で人を見ることができるタイプの人間じゃないから。

 

周りの目を気にせず時間通りに退勤して、帰り道でケーキを買った。

苺のショートケーキを二つ。

彼と趣味が似ているので、私は何も考えなくて済むので楽だ。

あたりはもう暗くなっていて、季節を感じる。

夕日が赤い。

帰りの電車は席が空いていたけれど、ドアの横に立っていることにした。

その方が空が見えるので良かった。

 

帰って、料理をしていると彼が帰ってきた。

「お帰り」

私はエプロンを着けたまま扉を開ける。

「なんかそれ、ここが俺の家みたいだ」

そう言われて私は、おかえりの違和感がなかったことに驚いた。

「ただいま」

私が返事をする前に言われたただいまは、暖かくて大切だと思うのだった。

 

彼が私の好きなものを食べようと言ったので、私の好きなシチューを作った。

おばあちゃんから教わった唯一の料理だと言ったら、彼は喜んでくれた。

私がおばあちゃんの話を出来たのは、彼が初めてだったのだ。

テレビのバラエティを見ながら、シチューを食べ終えた。

皿洗いは彼がやってくれた。

その間、私は本を読んでいた。

 

「そろそろ、始めようか」

私は彼に言う。

「そうだね」

彼も答えた。

彼はカバンからプラスチックケースを取り出す。

中には白い粉が入っていて、砂糖のようにも見える。

「もらってくるの大変じゃなかった?」

「いや、うちの会社は管理が甘いからこういうのはわりとできちゃうんだよね」

彼は少し早口に話す。

その様子が少し不安になって、手を握った。

「ありがと」

彼がゆっくり息を吸う。

「本当にいいね?」

彼は私の目を見る。

私は頷いてプラスチックのコップを差し出す。

その中に注がれていたドリンク剤に、彼は粉を溶かし込む。

二つのドリンク剤を混ぜる彼の手を、握って私も一緒に混ぜていく。

溶けたことを確認して顔を上げると、彼と目が合った。

二人の間に柔らかい笑い声が漏れる。

「もう戻れないね」

私は言う。

目を伏せたときに視界を覆った髪が邪魔でかき上げる。

「俺のほうはもう明日にはバレてるさ。戻れない」

視界の中には彼がいる。

いつもと違う私の部屋がある。

「私だって、有休全部捨てちゃった。戻る気なんて無いんだよ」

目と目を合わせて、私たちは乾杯をした。

 

「少し、寒くなってきたね」

彼が言う。

「冬が来るからかな」

私が言う。

「手足の先が冷えちゃって、もうなくなっちゃったみたいだ」

彼が言う。

「心配?」

私が言う。

「ちっとも」

彼が言う。

「そういえばケーキ、食べ忘れてた」

私が言う。

「そんなのあったの」

彼が言う。

「買ったんだけどね」

私が言う。

「もったいなかったね」

彼が言う。

「そろそろおばあちゃんにさよならしないと」

私が言う。

「これから会いに行けるんじゃないの?」

彼が言う。

「私たちは地獄に行くんだよ」

私が言う。

「おばあちゃんは絶対に天国に行ってるから」

私が言う。

「こうやってさ」

誰かの言葉。

「少しずつ溶けていくような日々の中で」

誰かの言葉。

「いつか自分も溶けていってしまえたらなあって思うんだ」

誰かの言葉。

「そうだね」

誰かの言葉。

「飛行機雲が見えたの」

誰かの言葉。

「電車の中から、飛行機雲が見えたんだよ」

誰かの言葉。

「白い雲が、だんだん空に溶けるんだ」

誰かの言葉。

「いつか飛行機雲もない青空になっちゃうんだよね」

誰かの言葉。

「おばあちゃんのこと、覚えてる人がまた一人減るんだね」

誰かの言葉。

「日常が流れてって、その延長線上に消える日はあって」

誰かの言葉。

「誰かがこうして今日も消えて」

誰かの言葉。

「幸せって、他人には分からないよ」

誰かの言葉。

「会えて良かった」

誰かの言葉。

「ねえ、聞いてる?」