ぬいぐるみの行く末

「人間は知らないんだよ。みんな自分の地位が当然のものだと思ってる。」
元教授はそうやって話し始めた。
「自分が、淘汰の末に生き残ったものだってわかってないから、自分への信頼も他者への感謝も、知らない。気づかない。」
「それは、どういうことだ?」
「『ですか?』」
「……どういうことですか?」
「そのままだよ。自分が生きている下に多数の犠牲があることを知らないから、感謝がない。信頼もない。まあ、現代人はその犠牲に触れる機会が少ないから、当然っちゃ当然だよね。」
「感謝か……。」
「いやね、感謝って言っても丁重に扱えとか毎日お祈りしろとかじゃなくて、今そこに「ある」ものと同じように、そこに「あった」もの、「あるはずだった」もののことも忘れるなってことだよ。存在だけがすべてじゃない。君だって、存在していない可能性がないわけじゃなかったんだ。」

俺の昇進も、昇給も、俺にとってはそんなに重要なことじゃない。
生活は満ち足りているし、欲しいものも特にない。
やりたいことは全部やってるし、日常は素直に楽しいと思える。
そういうものなのだろうと思っていた俺がいる。
やりたいことをして、楽しい日常をすごして、それがあたりまえだった。
その日、昇給して最初の日、飲み会で散々おだてられた俺は、お酒と相まってかつてないほど陽気に酔って帰ってきた。
ピンポーン
「はい……。」
少し暗い声。
何かを疑うようなその声。
その声だけで、普段だったら気づいていただろう。
「ただいま〜〜俺だよ〜〜。」
「どちらさまでしょうか?」
「忘れたの〜〜? 青だよ〜〜七島青! 君鳥ちゃんの大好きなお兄ちゃんだよ〜!」
「なんで私の名前を知ってるんですか?」
「なんでって、お兄ちゃんだからだよ!」
「帰ってください!」
「へ?」
「屋久島さん、でしたっけ? 私のストーカーなんだったら、うちには恐い恐いお兄ちゃんがいるんだから、どんなにつきまとっても無駄です! 帰ってください!」
「え……」
会話が噛み合っていない。
「なんならお兄ちゃん呼びますよ!」
「いや、お兄ちゃんは俺だって……」
「おにいちゃーーーーん!」
奥の方からへんてこな声で
「どうした、君鳥?」
「変な人が来て困ってるの。追っ払ってくれない?」
「そうか、代われ。」
へんてこな声が俺に言う。
「残念だったな。七島青、いや、今のお前は屋久島赤か。悪いが妹は預かった。お前の地位も名誉も俺のものだ。お前の人生は俺が引き継ぐ。だから、諦めろ。別の人生でも楽しんで、大往生でもしたらいいんじゃないか?」
そこでインターホンは切られた。
俺はそこからはよく覚えていない。
酔っ払ったままその辺の公園で寝た気がする。
9月の夜、少し肌寒い中、虫の声が響いていた。

翌朝、俺は見知らぬ部屋で見知らぬ女性に起こされる。
「旦那様、いい加減起きてください。」
「…………誰?」
「旦那様、妻の顔も忘れましたか? あやめですよ。」
そうだ。
この人は俺の妻のあやめ。
金に染めたポニーテール。
少し大きい目。
スラリとした長い足。
エプロンをかけている。
「もう仕事をしなくていいからってこんなに遅くまで寝てていいわけじゃないんですよ。ほら、起きて起きて。」
そうだ。
ここは夫婦の寝室。
俺は宝くじを当てて仕事をやめた。
昨日だって、ほら。
ほら、えーっと、なんだっけか。
「あやめ、」
「なんです?」
「俺、昨日何してたっけ?」
「覚えてらっしゃらないんです?」
「残念ながら。」
「劇を見に行ったではありませんか。」
「何の?」
「『○▲●✕■』」
「は?」
「だから、『○▲●✕■』ですよ。」
確かに彼女は何か発声していた。
しかしその言葉は、まるでジャミングでも受けたかのように不明瞭で、聞き取ることはできなかった。
「あのさ、」
俺は混乱とともにこう聞いた。
「そのパンフレットってある?」
「ありますよ? たしか旦那様は机に入れていたはずです。」
そう、俺は劇のパンフレットを机に、入れた、気がする。
なんか気持ち悪くなってきた。
「もうごはんできてますから早く来てくださいね。」
「わかった。」
あやめが部屋を出てから部屋を見渡す。
机にいくつものディスプレイと思しきものが置いてある。
机の引き出しをゆっくりと開ける。
『Nothing hurts like the truth 主演︰七島青』
七島青、聞いたことある名だ。
公演日は、2000年4月。
2000年?
おかしい。
2000年のわけがない。
今年は2016年。
昨日行った劇が2000年のはずがない。
公演場所は、東応小空間。
たしか東応大の、なんで知ってるんだ?
俺と東応大に何か関係が?
パンフレットの隙間からしおりが落ちた。
青い小さな花のしおり。
淡い光を放っているようにも見える。
俺はそれをポケットに入れて部屋を出た。

「あやめ」
「なんです?」
「この劇、」
「……!」
パンフレットを見せるとあやめはそれを奪って暖炉に放り投げた。
「失礼しました。少々お待ちになって。」
あやめは俺の目の前に手をかざす。
淡い光がその手から放たれ、た、だけだった。
「何をしてるんだ?」
「……あれ?」
俺は何かを悟った。
この人が何をしようとしているのか、なんとなくわかった。
常識では考えられないことだが。
ポケットの中のしおりが、なぜだか燃えるように熱い。
もう一度、あやめは手をかざす。
その手から光が放たれる瞬間に俺はその場に倒れ込む、ふりをする。
「ちょっとやりすぎたわ。」
あやめがつぶやく。
「ゴースト、運びなさい。」
その瞬間、俺の身体は浮かび上がって(!)しばらくしてからやわらかな上に置かれた。

それからしばらくすると、
「旦那様、起きてください。」
「……誰?」
「旦那様、妻の名前も忘れましたか? あやめですよ。」
「……ああ。」
気づいてしまった。
「もう10時になりますよ。さあ、起きて起きて。」
「飯は?」
「もうできてます。」
「ありがとう。すぐ行くよ。」
……あらかた見当はついた。
どうやってここから逃げ出そうか。

朝食は洋風だった。
トーストとハムエッグとサラダ。
「あやめ。俺、少し記憶がおかしい。昨日のこともそんなに覚えてない。」
「やっぱり。あなた昨日は潰れるほど飲んだじゃありませんか。」
「だからって名前まで忘れるか?」
「私の名前もわすれるなんて失礼ですね。」
「いや、俺の話。」
そう、俺は未だに俺の名前を思い出せずにいた。
あやめはわざとらしく口に手を当てる。
「本当に覚えてらっしゃらないの?」
「残念ながら。」
「私の名前は屋久島あやめ。旦那様の妻です。」
……屋久島?
「旦那様の名前は屋久島赤。宝くじのお金を元手に株の売買をして生計を立てています。」
まるで覚え込ませるようにあやめは言う。
「これで思い出してもらえた?」
「あ、ああ。だいたい思い出した。」
「よかった。」
なんとか乗り切ったようだ。
「じゃあ少し外出てくるわ。」
「どちらに?」
少し怪訝な顔をするあやめ。
「散歩だよ。」

散歩というのが嘘だとバレるとまずいので財布だけ持って外に出る。
とりあえず俺の屋久島赤という名が本当かどうかもわからないんだ。
ここがどこかなんてなおさらだ。
交番で道を聞く。
「すいません。」
「ん、君はこの辺では見ない顔だな。怪しい。」
「怪しいものではないです。道に迷っちゃって。」
「何も荷物を持たずに道に迷う。怪しいな。」
こんなに疑われているのに全く俺は焦っていない。
こんな分析もできるほどに。
多分本当は嘘ばっかりついてる仕事をしてるんだろうな。
「全く怪しい者じゃないんです。財布だけ持って散歩するのが趣味で。」
「怪しい。」
「何も荷物を持たない自分って素晴らしいじゃないですか。帰属感が何もない!」
突然熱く語りだす俺。
本当に今の俺に帰属感はまるでない。
「まあそうかもしれないかもしれないな。」
変な警官だな……。
「俺、普段は営業職やってるんですけど、スーツを着てると、こう、型にはまっちゃってるなって気持ちが湧いてくるんですよ。持っているパソコンやかばんも、型にはまっている証じゃないですか。」
「そうかもしれないかもしれないな。」
「だからたまに有給取って、全部置いて出かけたくなるんです。」
「ああ、なんとなくわかった。」
「駅はどっちですか?」
「この道を真っ直ぐ行くと線路に突き当たるからそこを右に行けば駅だ。」
「ありがとうございます!」
俺が営業職をやったことがあるかどうかなんて知らない。

東応大学までは電車で一時間半くらいだった。
東応大学の駅前に着くと、俺はすぐに異変に気づいた。
ぞわぞわと肌を撫でるような奇妙な感覚がある。
ある方向から変な気を感じる。
おそるおそる大学構内に入ると、突然、シーンが切り替わったように周囲の景色が変わる。

人が流星のように流れ、木が色を変えながら短くなっていく。

その中、後ろからゆっくりと男が歩いてきて、俺の横を通り過ぎた。
ジャージに猫背。
視覚ではない他の感覚が、気だるげなこの男のダークな印象を告げている。
その男が振り向いて俺に言う。
「遅かったっすね。七島先輩。」
「おう。」
俺は七島っていうらしい。
七島青。
パンフレットにあった劇の主演。
なんとなくそうかなとは思っていた。
「今日の配役は、劇の終わったあとに、ご友人に挨拶をする七島先輩の役っす。」
「友達なら話を合わせるのが大変そうだな。」
「あれ、」
男はぼさぼさの頭を掻く。
「記憶、まだだったっすね。しおりは持ってきたっすか?」
「これのことか。」
ポケットに入れていた青い花のしおりを見せる。
「じゃあまあそれを手に持って思い出したいことを考えるっす。」
「こうか。」
しおりを青い光が包む。

甦る記憶。

全ての記憶がフラッシュバックしていく。

自分に起きた今までのことが、何もかも鮮明に思い出せる。

「忘れな草のしおり、しおりの形になっているのは、記憶のページを紐解くという意味があるっす。」
「粋なことをするね。」
「七島先輩に褒められるとなんか気持ちいいっすね。」
「よせ。男に言われても気持ち悪いだけだ。」
「そっすよね。じゃ、ちゃちゃっとすませましょうか。」
男が指を鳴らすと俺たちはスーツ姿に着替えていた。
「なんかこういう難しい任務をこなす計画みたいなのはスーツでやるとぴしっとするっすよね。」
スーツ姿の男に先程のような気だるさはない。
「あ、そうだそうだ。しおり返していただくっすよ。」
「何かにつかうのか?」
「これを必要とする人がいるっす。あ、まあこれから必要になるんすけど、そもそも今がいつかわかんないっすよね。」
「2000年だろ。」
「理解がはやいっすね。どこかの小説家さんとは大違いだ。」
「まあ、いいよ。ほら。」
しおりをわたす。
「ありがたく受け取ったっす。じゃ、俺は先に行くんで。ここから行って劇場の中に入って、関係者通路から出てきた瞬間に時間が始まります。」
「その後はどうすればいい。」
「何でもいいっす。七島先輩の演技力を信じてるんで。」
「そう。」
そういえば名前を聞いてなかった。
「君の名前は?」
「ココロっす。心。苗字は不一致の不に遊ぶで不遊(あそばず)。名前は心で、不遊心。遊び心は大好きっすけどね。」
「変な名前だな。」
「ひどいなあ。結構気に入ってるんすよ?」
「まあ、いいや。ありがとな。」
「お安い御用っすよ。じゃあ俺はここで。」
男はワイプのように消えた。

流星のような人の流れの中、俺は大平に挨拶をするために劇場に向かう。
この日のことも鮮明に思い出せる。
たしか引退公演の最終日、俺は寝坊して劇はめちゃくちゃ。
最後にロボットスーツ(もちろん手作りだ)でちょろっと出て話をまとめて楽屋で寝てた。
舞台に上がった時に大平の顔が見えたのを覚えている。
劇場の中に入る。
そう。たしかこんな感じだった。
舞台に乗って楽屋に向かう。
そこから関係者出入り口の扉はすぐだ。
ドアノブに手をかける。
「今の俺は大学二年生の七島青。」
何度も繰り返したルーティン。
舞台に上がる時もテレビに映る時も、もちろんラジオを始める前も、自分の立場を設定することは忘れない。

ドアを開ける。
ちょうど劇が終わってすぐの時だった。
観客はアンケートを書いている。
俺は入場口にまわる。
「七島先輩、お疲れ様です。」
「お疲れ様でーす!」
すれ違うスタッフが声をかけてくる。
「おう。お疲れ。」
入場口の前に立つと大平が出てきた。
相変わらず冴えない顔をしている。
でも少し初々しさを感じる。
「大平、舞台に上がった時びっくりしたよ。お前が来るなんてひとことも聞いてなかったからさ。劇のこと話したっけ?」
「聞いてなかった。あまりにもポスターにでかでかとお前の名前が書いてあって気になったんだ。」
「いやー、参ったよ。大平が来るってわかってたら寝坊なんてしなかったんだけどな。」
「…………は?」
困惑した表情の大平。
俺も何で寝坊したかまでは覚えてない。
「劇の方はどうだった? 俺の引退公演のためだけに後輩だけじゃなくてわざわざ先輩までも時間取って練習してくれたんだ。」
「ああ、まあ、よかったよ。今回はアドリブの練習だったのか? 台本がないにしてはうまくまとまってたんじゃないかと思うが。」
「まあ、期せずしてアドリブの練習みたいになったわけだけど、お前がそういうってことは俺が見てないところでもちゃんと出来てたみたいで安心したよ。」
「期せずして?」
「ほら、俺が寝坊しちゃったせいでみんな台本なくなったようなもんで大変だったわけだよ。代役でも立てればいいのに『七島先輩の代役なんて立てられません!』とか何とか言っちゃって、可愛い奴らだよ、まったく。」
「……何時に起きた?」
「うーん、起きたら短針が右側にあった。」
「午後じゃねえか!」
呼吸を整える大平。
「本当にかわいいなら次からはちゃんと寝坊せずに来てやれよ。」
「いや、今日の夜で最後だから。もう寝坊する危険はない。いやー、演劇も楽しいんだけど、でも俺にはラジオDJという夢があるからな。君鳥ちゃんも来年で小学校だし、ラジオDJで養っていくには相当有名にならなきゃだろ?」
「君鳥ちゃん?」
「あれ?」
話してなかったか。
「君鳥ちゃんのこと話してなかったっけ? うちの妹だよ。『将来は青くんのお嫁さんになるー。』とか言って本当に可愛くて可愛くて、もう食べちゃいたいくらいなんだよー! 俺がどんな冗談を言ってもまともに信じちゃって、冗談だってわかってから怒って俺の頭をぽこぽこ叩くの。あー! 思い出すだけで今すぐに会えない現実に気づいて心が破裂しそうだ!」
「君鳥ちゃんは旅行中だったりするのか?」
「いや、帰れば会えるんだけど、夜公演終えてからだから家につくのが10時とかじゃん。俺君鳥ちゃんと言葉を交わせないじゃん? あー! もう今日帰っちゃおうかな! 今すぐ帰っちゃおうかな! でも遅くに帰ると寝顔が見られる! 一日頑張ってからの君鳥ちゃんの寝顔はまた格別ですよ!」
マジで早く帰りたいけど俺には今帰るべき場所がない。
早く解決しなくては。
この時代の君鳥ちゃんをもう一回見たかったなあ……。

大平と別れてから、俺はとある場所に向かっていた。
東応大学民俗学研究室。
民俗学研究室のあるこの研究棟には初めて入る。
研究棟を歩くスーツ姿の俺は、さながら他大学から研究のために訪れた研究者のようだろう。
おんぼろの扉を開ける。
教授席に座って書き物をしている女性は、とんでもなく若くて、まるで大学生だった。
「あれ、来客かい? 予定にはなかったはずだけど。」
「アポなしだとまずいですか?」
女子大生にしか見えないのに、その雰囲気は敬語を使わせない程の圧迫感だった。
「いや、あ、ああ。君には夢が憑いてるね。」
その人はニヤニヤしながら俺を見定めるように眺めている。
「夢?」
「ということは……なるほど。じゃあ私の役割はこういうことか。おいで。夢を溶いてあげよう。」
「えーっと……」
謎の展開に戸惑う俺。
女性は手を招く。
「ここに仰向けに寝っ転がってみて。はい、いいよ。じゃあねえ、」
女性は棚から幾つかの手鏡を取り出し、その中の一つを見ながら独り言を言う。
「多分これの使いどころなんだろうな。ちょっと勿体無い気もするけど。君、名前は?」
「七島青です。」
「職業は?」
「この時代では学生ですけど……」
「君のいた時代では?」
この人はそこまでわかってるんだ。
「テレビ局で働いてます。ディレクターとかプロデューサーとかコメンテーターとか……」
「テレビは見ないから知らないかもね。」
「えっと、本当はラジオDJになりたくて、」
「お、いいねえ。私もラジオは好きだよ。昔からあるし片手間でも聞けるからね。私の名前は三木谷鞆絵。ここの大学で教授をしている。もっとも私は未来人じゃないし、自分の将来も知らないから、君の時代で何をしているのかは知らない。とはいえこの研究室に有力な後継者が現れない限り、私は教授をやるんだろうね。」
「ああ、それなら、」
大平の友人がそれだ。
「多分、良い後継者が現れますよ。」
「じゃあ晴れて自由の身ってわけだね。」
「多分今もわかっているんじゃないですか?」
「さあね。それはどうかな。」
ニヤニヤとした顔で俺を見る三木谷さん。
「本当は未来のことを過去の人間が知るのは禁忌なんだけど、これくらいは許してもらってもいいだろう? さ、じゃあ始めるかな。この鏡に映る自分の目を見て。」
俺の顔のすぐ前に鏡をかざす。
鏡の縁には花のつぼみが彫られている。
鏡に映る自分は思ったより若かった。
「鏡の縁の花が咲いたら起き上がっていいからね。」
「わかりました。」
「それじゃあ行っておいで。君の見つめる世界が幸せでありますように。」
三木谷さんが指を鳴らす。

だんだんと俺の顔が大人びていく。

髪の毛が少しずつ伸びてはいきなり短くなるを繰り返す。

つぼみは色づき、ふくらんでいく。

花が、咲く。

「うわ、え? 七島?」
気づくと手鏡はなくなっていて、俺の視界には天井が広がっていた。
「え、どうしていきなり現れたんだ? 魔法でも使ったのか?」
俺は起き上がって辺りを見回す。
驚いた顔の大平。
「お前、老けたな。太ったし。」
2000年の大平は、もっと若くて、もう少しだけ痩せていた。
冴えない顔なのは変わらないが。
「いや、こないだ会ったばっかりだろ。って、そうじゃなくて、どうやっていきなり現れたんだよ!」
「いや、大平くん。彼はずっとここにいたよ。見えなかっただけで。」
女の子の声。
後ろを振り向くと、16年前と全く同じの女性、三木谷さんがいた。
横には真っ黒な服を着た背の高いもじゃもじゃ頭の男がいた。
「紹介するよ。こいつは私の後任の黒土だ。君の言うとおりだったね。」
「おい、七島。お前元教授と知り合いだったのかよ。」
「元教授っていう呼び方はやめてくれないかなあ。失礼じゃないの?」
「……三木谷さんと知り合いだったのか?」
「知り合いっちゃ知り合いだよ。といってもついさっきからだけど。」
三木谷さんが呆れたように首を振る。
「水くさいねえ。かれこれもう16年の仲じゃないか。」
そうだ。
きっと、三木谷さんは16年間僕が来るのを待っていた。
「でもこんなに有名人になるとは思ってなかったけどね。」
待ちかねた黒土教授が口を出す。
「そろそろ本題に入ってもらってもいいかな。三木谷教授……三木谷さんにも時間がないはずだから。」
「ああ、そうだね。できれば今日中に方をつけたい。じゃあ七島くん。昨日からの出来事を語ってちょうだい。」

俺はあらかたの事を話した。
帰ってきたら君鳥ちゃんの様子がおかしいこと。
俺のふりをした人間が既に家にいた事。
目を覚ますと知らない人の家にいた事。
あやめという女性が俺の妻のふりをしていたこと。
ゴーストという何かが俺を持ち上げたり動かしたりしたこと。
家を出てこの大学に来たこと。
不思議な男に時間を戻されたこと。
そんなことを手短に話した。
大平と話したことは黙っていた。

「ゴーストって呼んでるから降霊術の一種ですかね。」
黒土教授がつぶやく。
「となると七島くんちにいたのも霊の類いだねえ。」
三木谷さんがうなずく。
「じゃあとりあえずその、あやめさんのいるところに行こうか。」
「準備とかしておかなくていいんですか?」
「一応塩と酒くらいは持っていくよ。それくらいはこの研究室にだってあるし。ここで考えてても仕方ないしさ。それにしても、誰だろうね。その『不思議な男』ってのは。」

今朝俺の目覚めたあやめの家の前にやってきた俺たち。
クールビズで腹が出てるのが余計に目立つ大平と、暑いのに真っ黒なローブを着込んでいるため背が高いのと相まって黒い木みたいな黒土教授、女子大生にしか見えないのにバカンスに来たセレブみたいな格好の三木谷さん、Tシャツにジーンズの俺。
俺があやめだったら絶対に怪しむ……。
俺と大平は別として残りの二人のオーラがヤバすぎるもん。
訂正しよう。
俺があやめだったら絶対に逃げる。
いつもだったらこれに村咲ちゃんが加わるのか……。
「なんかねえ。この家ヤバイよ。霊感センサーびんびんくるもん。」
三木谷さんがわざとらしく言う。
「本当にそういうのあるんですか?」
「ないけどエセ霊能力者っぽくていいじゃん。」
「僕にはこの人の感覚がまるでわからない……。」
大平が頭を抱える。
「ただね、」
三木谷さんが言う。

「良くないものがいるね。」

三木谷さんが大げさにうなずく。
「まあ話には聞いてたから霊がいるのはわかってたけど、随分たくさんいるのか、それか相当に恨みが溜まってるね。」
「そんなところに入るんですか!?」
「入らないと始まらないだろうよ。ほら、七島くんがチャイムを鳴らさないと入れてもらえないよ?」
すごい嫌な予感。
朝もいた場所なのにこんなに入りたくない。
「いや、ちょっと俺は……」
ピンポーン
「え、三木谷さん?」
今、あなたチャイム押しましたよね?
「はーい?」
あやめの声。
黒土教授が頭をぼりぼり。
大平は硬直してる。
三木谷さんが(ほら行け)と目で示す。
……行くしかないのか。
チャイムにカメラがなくてよかった。
「あやめ? 俺だけど、鍵忘れて外出たみたいだ。」
「はーい、今開けますよー。」
あやめが少し開けた扉を黒土教授がこじ開ける。
「どうも、あやめさん。こんにちは。入らせてもらいますよ。」
一瞬驚いたあやめは、視界に俺を認めると悲しそうな顔をした。
「やっぱりそうなのね。いいわ、」
途端に表情が好戦的になる。
「行きなさい、ゴースト!」
あやめが手を上げた瞬間黒土教授が後ろに吹っ飛ぶ。
「…………は?」
空いた口がふさがらない俺。
後方に飛んでった黒土教授を右方向に一回転しながら避けた三木谷さんがニヤリと笑って一言。

「あたしを敵に回したね。」

三木谷さんの周囲にいくつもの火の玉が周り出す。
大平が叫ぶ。
「住宅街でそれはまずいだろ!」
叫ぶところそこじゃないだろ!!!
俺は寝てる間にアクション漫画の世界に来ちまったのか!?
火の玉の一つが大平の髪の毛に燃え移った。
「熱っ! 熱っ!」
あやめも叫ぶ。
「炎を操るなんてどこの魔術師ですか!?」
「おや、これも降霊術の一種なのに知らないなんて、」
大平に燃え移ったのも含め、いくつもの火の玉は三木谷さんの上に集まり巨大な球となる。

「勉強が足りないね?」

三木谷さんはニヤニヤを抑えきれない。
「さあ、選びな! おとなしく諦めて私たちの言うことを聞くか、消し炭になるかのどっちかだよ!」
完全に悪者のセリフ。
大平が叫ぶ。
「住宅街の真ん中に消し炭を作るなよ!」
……もうどうにでもなれ。

約二分後、
三木谷さんの猛攻に耐えながら自らの住む家を必死に守っていたあやめも、生け垣が燃え始めたのを見て諦めたようだった。
「ごめんなさい。全て話します。」
きれいな土下座。
「じゃあとりあえず家にあげてくれないかな?」
「わかりました……どうぞ」

通されたリビングのテーブルにつく。
「もうおわかりかと思いますが、私は霊媒師なのです。」
「それは知ってたけど霊の力が他のその辺の霊よりかなり強くないかい?」
「えーっとですね、私は水子専門の霊媒師で、」
「そりゃまたミーハーな、」
「……それに加えて私は、実は七島さんの……ファンなんです!」
「へえ……」
そうなんだ……。
「七島さんのことが好きで好きでたまらないんです!」
俺もここまでの人には若干引く。
「ファンだからって何してもいいわけじゃないだろう?」
若干呆れた感じの三木谷さん。
あわてて両手を振るあやめ。
「でも普通にやれば誰も悲しまない完全犯罪だったんです! 七島青はゴーストが代わりをやって、誰もそれに気づくことはない。元の七島青は新たな記憶を手に入れて屋久島赤として生きる。ゴーストは新たな命を手に入れて万々歳じゃないですか!」
「それで、あやめは俺と生活できて幸せってことか。随分身勝手な完全犯罪だな。」
「よく考えて下さい! 誰も不幸な目にあってないんですよ! それならそれだっていいじゃないですか! それに、」
息を整えるあやめ。
「愛するという行為が恋愛から発展するものだというのは比較的新しい思想なのですよ。昔はお見合い結婚が普通でしたし、そっちのほうが幸福度は高かったなんて研究もあります。」
当たり前の話だ。
俺は君鳥ちゃんが産まれた時から君鳥ちゃんを愛している。
「今私のことを愛していなくたって、一緒にいるうちに好きになってもらえると思ってたんです。そうなれば本当に何も問題ないし、あなただっていつまでも妹さんを養うつもりはないんでしょう?」
「何を言ってるんだ。俺は君鳥ちゃんを愛している。俺が死ぬまでは一緒に暮らすつもりだ。」
「……そういう関係だったんですか。わかりました。私の完敗です。で、どうするんですか?」
テーブルに肘をついて三木谷さんが言う。
「まずは七島くんの家にいる七島くんの偽物について教えてもらおうか。」
「彼は水子、生まれることのなかった子供の霊の一つです。この世に生きている人間に対してかなりの恨みを持っています。そのため力はかなり強いです。」
「……それで?」
明らかに苛立っている三木谷さん。
「その水子には七島青として生きるために仮初の身体を与えました。それが七島青ではないと知らない人には七島青に見えるように細工してあります。あなたがたはこちらの七島さんが本物だとわかっているので本体が見えると思います。七島さんに見えるものが七島さんじゃないという可能性を一度でも考えたことのある人には通用しないおまじないです。もちろんそれが七島さんらしく振る舞わない限りはそうは見えませんが。」
「それで? そいつはどうやったら元に戻るんだい?」
「知りません。」

「「「は?」」」

「じゃ、じゃあどうやって戻すつもりだったんだよ!」
「初めて使ったおまじないで、戻すことは考えていなかったので知りません。」
ぷいっと横を向くあやめ。
三木谷さんが頭に手を当てる。
「呆れたね。わかった。こうしよう。まず、君みたいなポンコツ霊媒師には二度と霊を見れないようにしよう。それで……」
「えっ」
あやめはそんなこと考えてもみなかったかのような声をあげる。
「『えっ』って言ったって仕方ないだろう。悪いことしたんだから。」
「そうですか……それで、私の呼んだ霊たちは……どうなるんです?」
「きっちり成仏してもらう。それくらいならできるだろう?」
「まあ……はい。」
「じゃあとっとと始めようか。あ、それから七島くん。」
「はい?」
「君は大平くんと黒土くんと一緒に先に行ってなさい。黒土くんは霊を成仏させる方法くらいなら知ってるから。」
「え、えー」
明らかに不服そうな黒土教授。
「あ、それから、」
付け加えるように三木谷さんが言う。
「きっと、今日の儀式はつらくなるよ。」
「え、どういうことです?」
「それはね、」
話そうとした三木谷さんを遮って黒土教授が言う。
「水子供養はつらいものだって、相場が決まってるから。」

何度となく来たマンション、俺と君鳥ちゃんの住むマンションの前に俺たちは来た。
「どうやって入るんだ?」
大平がそう言うまで、誰も考えていなかったようだった。
もう六時を回っているから君鳥ちゃんも帰ってきているだろう。
「俺は当然のことながら入れてもらえない。黒土教授は面識がない、となると……」
大平を見つめる二人。
「僕、僕なのか? いやだぞ、そんな役!」
「じゃあどうするんだよ。帰るのか?」
「大平くん。君しかできないんだよ。」
黒土教授も諭す。
「ちょ、ちょっと心の準備をさせてくれ。」
俺は1305と押してチャイムを鳴らす。
ピンポーン
「な!?」
固まる大平。
三木谷さんへの恨みを大平で晴らすのはどうかと自分でも思うが、まあ仕方がない。
「はーい。」
君鳥ちゃんの声。
「ぼ、僕だかど」
誰だよ。何語だよ。
「大平信彦だけど、」
「どうしたんですか、そんなに焦って。」
「ちょ、ちょちょちょっと七島と話が。」
「うちはみんな七島ですよー。今開けますねー。」
エントランスの扉が開いたので大平の背中を叩いて先へ進む。

部屋の扉が開く。
「よう、屋久島赤。ずいぶん早く来たじゃないか。安心しろ、君鳥は眠らせてある。」
床に倒れた君鳥ちゃん。
テーブルに、鎮座していたのは、言葉を発していたのは、一体の、

くまのぬいぐるみだった。

「……俺はもう屋久島赤じゃない。名前を返してもらうぞ。」
「いやだね。もう一回マスターに記憶を消してもらったらどうだ?」
「マスター、あやめのことか。いやだ。俺は俺として生きる。」
「なんだよ、記憶がなかったらお前はお前じゃなくなるのか? 自我が弱いんじゃないか?」
「記憶だって俺の一部だ。七島青としての生活だって俺の一部なんだ。」
「それなのにお前の命より大事な君鳥ちゃんはお前が誰だかわからなかった。」
「……教授、黒土教授。」
「もういいのか?」
「頼む。」
「……俺は妖怪が専門なんだけどな。」
黒土教授が懐から出した食塩とカップ酒を無造作にばらまき、念仏を唱え始める。
「効かないね。」
「……どういうことだよ。」
「俺は生まれる前に死んだ他の水子とは違う。生まれた直後に殺されたんだ。母親の手で。持ってる未練の質が桁違いなんだよ!」
「……」
「どうしたよ。かわいそうだとでも思ったのか? そういうふうに憐れんでもらえてうれしいよ。虫唾が走る。この怒りも俺のエネルギーになるんだ。もっと憐れめよ!」
「……」
「俺の母親は12歳で俺をみごもった。中絶するには遅すぎた。誰にも見つからないように実家で産んで、母親は俺の首を必死に締めて殺した。12歳の手でも0歳の俺を殺すのは余裕だった。俺はなすがままに一瞬で死んだ。身内みんなで口裏を合わせて俺の存在をなかったことにした。俺は生ゴミと混ぜられて庭の肥料になった。」
「……」
「その母親が! 今は6人の子どもを持つ大家族の肝っ玉母さんさ! 6人だぞ? 性欲に抗えなくなったにしても6人はやり過ぎだろ。何が違ったんだ? その6人と俺と。」
「……」
「俺が何をしたっていうんだよ。教えてくれよ。」
「じゃ、じゃあ」
心を決めたように口を開く大平。
「七島は何をしたっていうんだよ。それこそお前には関係ないだろ!」

「そう。七島くんには何も関係ない。」

突然の轟音と少女の声が部屋を揺らす。
音がやんだ頃に壁から「ぬっ」と顔を出したのは三木谷さんだった。
「現世への恨みが深いからって、ポンコツ霊媒師のいいなりかい? さすがに七島くんに悪いと思うだろう。」
三木谷さんは何事もないかのように壁から出てきて俺達とぬいぐるみの間に立つ。
「誰だよお前。」
「私はポンコツ霊媒師よりちょっとだけ厄介な霊能者さ。今までの様子、悪いが見せてもらっていたよ。」
ぬいぐるみの口の片方の端が少しだけ歪む。
「そうかい。でもお前は、お前らはなんにも知らないんだ。こいつがどれだけ幸福かを! 毎食妹に食事を作ってもらって、遊びみたいな仕事のくせに生きていくのに必要な量よりよっぽど多い金をもらっている! 街に出たら人気者で、家に帰ったら可愛い妹が待っているんだ。おかしいとは思わないか? なんでそれが普通だと思えるんだよ!」
「……」
俺は返す言葉が見つからない。
「でも、七島くんだけじゃない。生きている人はみんなそうさ。みんな何かしらの幸せを持っているのに、自分が幸せだとはこれっぽっちも思っていない。自分が幸せだと口では言っていても、本当の意味で幸せを理解できている人間なんてそれこそめったにいないものなのさ。」
三木谷さんはゆっくりと両手を上げる。
「君は現世に対する執念が強すぎるんだ。成仏なんてとてもじゃないけど出来ないよ。」
「ど、どうするつもりなんだ。」
とっさに放たれた言葉は、俺のものだと気づくまでに少しだけ時間がかかった。
「封印する。偽物としての機能を消し去るのさ。」
ぬいぐるみに向かって叫ぶ三木谷さん。
「遺言があったら今のうちに言っておくんだね!」
うろたえるような声を出す人形。
「ま、待てよ。俺は何も悪いことをしてないじゃないか。」
「……」
もう誰もその声に返事を返さない。
「マスターの指示で新しい仮初の命を受け取っただけなんだ。」
「……」
「こいつらにだって、危害を加えたりはこれっぽっちもしていないぞ。」
「……」
「俺にだって、幸せになる権利くらい、あっても良いんじゃないか?」
「……やめろよ」
「なんで俺ばっかりこうなるんだよ……何にもしてないのに」
「やめろ!!!!!!」

俺の叫んだ声は、目で確認できるかのようにぬいぐるみに向かって収縮し、その音はなくなった。

「終わったよ。」
三木谷さんが言う。
「それで、その子はどうなったんですか?」
「もう動くこともしゃべることもない。ただの物だ。考えることも、苦しむこともあっても、表現できない。その辺のぬいぐるみと同じだよ。」
三木谷さんはそのぬいぐるみを踏みつけて言う。
「まったく、つまらんことで手間を取らせやがって。」
……その日の晩、俺はすこしだけ泣いた。

「そもそもね、水子という概念は比較的新しいものなんだよ。人工中絶が人口に膾炙した……というとおかしいけど、まあ、一般的になったころ、中絶をした女の人の罪悪感を相手に商売をするために名前がついた。」
「じゃあその前はどうだったんですか?」
「どうも何もない。ただの産まれなかった子どもの幽霊だよ。産まれなかったからといって他の霊と比べて特別生きてる人を怨んだりはしない。名前がついたから、水子という概念ができたから人を怨むようになったのさ。よくあるだろう? 嘘つきだと言われて育った子どもが嘘つきになるとか、その子のことなんて何とも思ってなかったのに噂されるようになって気になり始めるとか。」
「その程度のものなんですか?」
「そんなものだよ。人がかわいそうだと思うから自分のことをかわいそうだと思うんだ。とはいえ、あの水子の恨みの強さは、多分あの女の『教育』の賜物だろうね。散々自分がかわいそうだと教え込んだんだろう。」
一呼吸おいて三木谷さんが続ける。
「それにしても君は勘がいいね。記憶を保つことができたのも、私のところに来ることができたのも、君の勘のおかげさ。この間の村咲くんの演奏といい、七島家の血は侮れないと私は思ってるよ。」
「何の役に立つんですかそれ。」
俺は苦笑混じりに言う。
「役に立ったじゃないか。今後とも、よろしく頼むよ。」
とんでもない、まっぴらごめんだ。
俺は苦笑しながらそう思い、ニヤニヤ笑う三木谷さんと別れた。

「お兄ちゃん。」
「なに?」
「すごく言いづらいんだけどさ。」
「なんだよ。言えよ。」
「お兄ちゃんもう30代でしょ?」
「そうだけど?」
「いい年したおっさんにくまのぬいぐるみは、似合わないよ?」
呆れ顔の君鳥ちゃん。
「別にそこまで言うことないだろ? 君鳥ちゃんだって、いつも首からピコピコハンマー下げてるじゃないか。」
「これは、ツッコミ役の標準装備なの!」
ピコと頭を叩かれる。
ツッコミ役がみんなピコピコハンマーを持っているわけじゃないと思う。
「いちいち叩くなんてひどいよなあ、赤ちゃん。」
「赤ちゃん???」
「あ、こいつの名前は赤っていうんだ。七島赤。」
ピコピコハンマーを取り落とす君鳥ちゃん。
「……信じられない。いくら妹との子どもがほしいからって、ぬいぐるみに赤ちゃんって名付けるとか……キモい。マジありえない。」
「……昔の君鳥ちゃんだったら顔真っ赤にしてピコピコ叩くところだろ???」
「私だっていつまでも子供じゃないの。気持ち悪いものとそうじゃないものの区別はつきます!」
俺からぬいぐるみを取り上げて言う。
「これは没収です! おーよしよし、おねえちゃんと一緒にお部屋行きましょうねー、赤ちゃん。」
そうか、君鳥ちゃんもおねえちゃんになれたのか。
新しいおねえちゃんのこと、あの子は喜んでくれているだろうか。

船の上で、私は手紙を開く。
「おかしなことが起きていることを、みんなが知ったら、どうなるんすかね? おまじないや、魔法や、奇跡が、本当に「ある」ものだと思い始めたら、それが「ない」ことで回っていた世界は、止まるのかな? 壊れるのかな? 面白いと思わないっすか? まあそんなわけで、あなたが偉そうに「不思議」について講釈を垂れてくれるのは実に都合がいいっす。今後も頼むっすよ、元教授さん?」
私は手紙をぐちゃぐちゃに丸めて海に放り投げた。


あとがき
かなり長い間書いてた気はするのですが、読み返すとそんなに量がなかったです。
不思議世界更新中は次のフェイズに入りまして、初回は青くん主人公のストーリーとなりました。
お楽しみいただけましたでしょうか?
今回は初心に帰って会話劇風になっていますが、読み返すと随分荒い構成だなあと反省しております。
ぬいぐるみの行く末、実はクトゥルフ神話TRPGのシナリオとして考えてた案なのですが、何度書き直してもシナリオにはならず、大学に入ったらTRPGやる機会も減るからいっそ小説にしてしまおう、ということで小説化と相成りました。
主人公もいろいろな案が試されたのですが、小説では青くんが一番適しておりました。
青くんがいなかったら、ぬいぐるみの行く末という案はボツになっていたことでしょう。
今回名前が明かされたココロちゃんも、僕のシナリオのNPCなので、もしかしたら僕と卓を囲んだら出てくるかも?
ご期待ください。

さて、この話の主題である、「いないもの」「いるはずだったもの」への礼儀、ですが、僕は「いること」を最大限謳歌することがその一つの答えではないかと思っています。
存在する者が非存在と向き合うときに、悲しむことも一つの礼儀かもしれませんが、必死に存在しようとすること、存在を感じるまで存在しようとすることが、一番大事なのではないでしょうか?

そんなわけで、ぬいぐるみの行く末はここまででした。
不思議世界更新中、次回はまた大平くん主人公でTRPGのシナリオっぽいものをやるつもりです。
時間軸的には、Forget Me Not [空想]とぬいぐるみの行く末の間の話になるかと思います。
よろしくお願いします。
ここまでご拝読ありがとうございました。
次回もお楽しみに。