Forget Me Not [現実]

風呂上がりに歯を磨き、髪を乾かす。
いい塩梅になる頃までパソコンを眺めていようと思ったが、それはちょうど今頃らしい。
パソコンのシャットダウンをクリックして電気を消す。
布団に入る。
蛍光灯が暗くなってからパソコンの画面の明かりが消えるまで、その時間、暗闇の精度は低い。
パソコンの画面の明かりが消えたらこの部屋の暗闇の精度があがる。
夜がくる。

目の前に丸い何かがある。
牛乳を飴にしたような色をしている。
白い部屋に浮かぶ白い球体。
その球体の上に影がさす。
見ると白い部屋の天井近くに雲が満ちてきた。
雨が降りそうだ。
直感的にそう思った。
何か音が聞こえる。
だんだん大きくなってくるその音に球体が振動しているようだ。
突然、球体は破裂し、ピロロロロロロロロという音が溢れ出す。

薄目を開ける。
外は日が差している。
大音量で電話がなっていて、夢の中で聞こえた音はこの音のようだ。
おかしな夢を見ていた。
昨晩遅くまでパソコンを見ていたからか。
しかし外は晴れているのにどうして雨雲の夢なんて見たのだろう。
人工の明かりで脳がおかしくなったのだろうか。
眠い目をこすり急いで電話にでる。

「はい、大平です」
「おお、ノブくんかい。どうだ、元気にしてたか?」
……誰だ。
僕の名前も知っているようだし、この距離感は絶対知らない人じゃない。
何とか話を合わせよう。
「はい、なんとか」
「一人暮らしして東京の名門に通っているようじゃないか。大変だろう」
よし、この人は僕が東応大学に通っていることまでは知らないみたいだ。
多分水戸の梶木のおじさんあたりだろう。
母さんたちもしばらく連絡を取っていないだろうし間違いない。
「どうだ、東応大学っていうと国の威信も背負ってるんだから頑張らないとな」
知ってた。
この人僕が東応大学通ってること知ってたよ。
誰だろう。
「もしかしてワシが誰だかわかっとらんみたいだな」
「あ、いえ」
「本家の和哉おじさんだよ」
教えてくれた。よかったー。
「君も今年で……何年だっけ」
「大学2年です」
「そうそう。大学2年って言ったら今年でもう20歳だろ」
「2浪なので22です」
「ああ、そうだったか。まあどちらにせよもう大人だからな。親戚の名前くらい覚えんといかんぞ」
「どうもすみません」
早く電話切りたい。
「今日はどういったご用件で?」
「ああ、いや。うちの娘がいるだろ」
知らない。
「ひなこっていう。今年で高校2年になるんだ」
いたような、いなかったような。
「昔、僕と遊んだことありましたっけ」
「いや、ない。君みたいな子と遊ばせると根暗が伝染りそうで怖かったからな」
このおじさんさらっとひどいこと言うな。
「でも挨拶ぐらいはしたつもりだぞ」
そうだっけか。
まあお父さんは本家の人が嫌いだったし滅多に遊びになんて行ってないんだけど。
「んでひなこは東京の高校の寮に入っているんだがな、この間火事にあって寮が焼けてしまったのだよ」
「え!? 怪我とかは大丈夫なんですか?」
「ああ、春休みの間だったから誰もいなくて怪我人はいなかったんだがな、寮がないまま新学期を始めざるを得なかったから生徒はどこかに寝泊まりして学校に通いなさいという事になったんだ」
話が読めてきたぞ。
「うちの娘をどうか君のうちに泊めてやってはくれんか」
「いやです」
「はっきり言うの」
「大体なんで僕のうちなんですか?」
「ワシの気持ちも考えてみたまえ。年頃の娘を大学生の根暗の男の家に泊めたいと思うか? 特別な理由があるに決まっているだろう」
「特別な理由とは?」
「東京の知り合いがお前しかいないんだ! 頼む! 宿泊費として一週間につき1万円出すから!」
ため息が出た。
「新しい寮はいつ完成するんですか?」
「4月末には間に合わせると手紙が来た。期限までに完成したら君に全部で5万円渡す」
「従妹は法的には結婚できるんですよ?」
「娘には男が触れたら悲鳴を上げるように教えこんである。君も指一本でも触れたら承知せんぞ」
「そんな無茶な」
「ひなこは今日の夜に東京に向かわせる。18時に東京駅に着く特急に乗せるから銀の鈴の前で待っててくれ。頼んだぞ」
電話が切れた。

「とりあえず、だ」
顔を洗って歯を磨く。
うちに家族以外の人がくるのは初めてのことじゃないか?
汁の入ったカップラーメンの空き容器が目の端に映る。
食べかけで袋の開いたままのポテトチップス。
ボウリングのピンのように並んだビールの空き缶。
浪人時代から積み重ねたゴミの山も大変なことになっている。
部屋を片付けなくては。
今日は午後から用事もあるし、午前中のうちに終わらせないとならない。
とりあえずゴミは全部捨ててしまおう。
ゴミ袋は……ゴミ袋は……どこだ。
ゴミ袋を買った覚えはあるんだ。
多分キッチンのあの辺に……そうそうこの辺に……うわっ!
重大なミスをおかしてしまった。
キッチンの前のフローリングには引っ越した当初から直径5センチ程度の穴があいている。
そこに足を取られて思いっきり転んでしまったのだった。
べしという鈍い音が僕の脳内に響いた。
「いたたたた……」
しばらくの悶絶。
だが視点が低くなった結果目の前にゴミ袋の束が見つかる。
右手でそれを掴み左手を床について立ち上がろうとして気づいた。
左手首を負傷している。
「あー、いってえ」
座ったまましげしげと左手を眺める。
見た感じでは何も変わらないのだが手首のあたりを触ると激痛が走る。
これ、俗に言う折れてるってやつじゃないか?
22年生きてきて初めての骨折がこんな情けないことでだなんて……。
あー、折れてたらやだな。
包帯で首から吊ったまま一ヶ月そのままとかなんだろうか。
入院になってしまったら誰か見舞いに来てくれるのだろうか。
僕が入院したことに誰も気づかずに寂しい入院生活を送るのだろうか。
そこで僕は一人寂しく死ぬのだろうか。
ゴミだけ捨てたら病院行こう。

大急ぎでゴミを片付ける。
つかむことならできるからと左手でゴミ袋を持ちゴミをひょいひょい入れていたのだが袋が重くなることに気づき、結局床に置いた。
どっさり出た生ごみも別の袋に詰めた。

ゴミをあらかた袋に詰めて時計を見ると10時半。
まだ大分汚くて足の踏み場もないほどだがもう病院に行っている時間がなくなってしまう。
まあ5袋もゴミが出たし上出来か。
ゴミ袋を両手で持つことが出来ないので一つずつ外に運び出す。
アパートの階段を5往復してなんとか一仕事終えた気分になった。
さあ、病院に行こう。

「あいやー、お兄さん捻挫だネ」
レントゲンを取って通された診察室で整形外科の医者はそう言った。
なんで中国人風なんだろう。
「でも骨折してなくて良かったネ。まあ骨って丈夫だから」
なんだ折れてないのか。
あんなにギャーギャー騒いだのが馬鹿みたいだ。
「とりあえず、湿布貼って包帯巻いてあげるから。曲げたりしないようにするアルヨ」
アルヨとか本当に言う外国人がいるとは思わなかった。
「一週間経っても痛みが引かなければまた来れば湿布あげるヨ。それじゃあ、前で待っててネ」

薬局で湿布をもらって大学に向かう。
病院とは思いの外お金がかかるものだ。
東京駅までの交通費がなくなりかねないので昼飯は抜くことにする。
大学に行くのは友人の七島という男が出るという劇を見るためだ。
なんでも途中退部することになった七島一人のためだけに引退公演をやるらしい。
何故そんなことになったか、理由はよく知らないが、七島と一緒に歩いているとすれ違う生徒が七島に挨拶をすることが今までに何度もあった。
七島にはとても丁寧に接するのに七島の横にいる僕のことはゴミを見るような目つきで見るのが印象的だった。

大学で劇を見に来るのはこれが初めてである。
今までも七島が劇をやっているということは噂には聞いていたが、本腰を入れてやっているわけじゃないようで、本人からのお誘いなんかは一度もなかった。
今回も七島から招待されたわけじゃないが面白半分で来てみただけだ。
門から入ってすぐのところに看板が立っている。
「Nothing hurts like the truth 主演:七島青」
七島青の字が随分大きくて他の役者や監督の名前が見えない。
看板の前に立っているマントを着た女の叫び声によると教室から少し離れて購買やその他諸々のある建物の横に小劇場があるらしい。

ひとまずその方向に歩くと行列が見えてきた。
小劇場という割には結構しっかりした建物だな。
おどおどと、しかしさりげなく、さも常連のように列に並ぶ。
開場は始まっているはずなのに結構な行列だ。
しかも若干女性客が多い気がする。
あいつにこんな人気があったなんて。
大学の劇団がやる劇なんてもっと客が少ないもので、知り合いを呼んで何とか席が半分埋まる位のものだとばかり思っていた。
だんだんと前に進み、自分の番が回ってくる。
受付の男がおじぎをする。
「こんにちは! 学内の方っすか?」
元気がいいけど敬語がなってないな。
「あ、はい」
「どなたか劇団にお知り合いの方はいらっしゃるっすか?」
『いらっしゃるっすか』とか初めて聞いたぞ。
「ああ、えーっと、七島の友人です」
「七島先輩がお目当てなんっすか?」
元気な割に冷たい目。
僕が七島の友人じゃ悪いのか。
「七島先輩は男には興味ないっすよ」
「そういう関係じゃない。友人だ、友人」
だからその冷めた目で見るのをやめろ。
「ではこちらに名前をお願いしゃーす」
空欄にフルネームで大平信彦と書く。
来場者数であろう横の236という数字に丸が付いている。
他の数字には丸が付いていないのだが。
「この数字はどういう意味ですか?」
「あ、あ! おめでとうございます! あなたは236人目の来場者っす!」
「236人目?」
「記念品の栞っす。」
男が青い花が押し花にされた栞を僕に差し出す。
「この花は忘れな草と言うっす。思い出したいことがあるときにこの栞に願うと何かが起きるっす!」
「何かって何が?」
「それはその時になってみないとわかりません。まあ、おまじないのようなものっす。大切にしてくださいな!」
なるほど。
劇の内容を忘れちゃってももう一度思い出させてくれるというわけだな。
粋なことをするじゃないか。
「こちらパンフレットっす。それじゃあ楽しんでってください!」
劇場の中へと入る。栞は劇のパンフレットに挟んでおいた。

かなりの期待を胸に僕は席についた。
一番後ろの壁際の席だ。
緊張感で始まる前から手に汗を握っていた。
開演は15分遅れ、演技もしょっぱなからグダグダだった。
台詞も被るわ、途切れるわ、黙るわで台本も何もあったもんじゃない。
肝心なことに七島が出てこない。
主役なのになんで出てこないんだ。
僕は違う劇を見ているのか。
とか考えている間にラスボス戦になった。
結局七島は出てこないのかと思っていたら最後の最後に七島の声をしたロボットのようなものが出てきて一撃でラスボスを倒して話は一件落着で七島は帰っていった。
かくして僕の初めての演劇体験は幕を閉じたのであった。
何だったんだ一体……。

劇が終わって外に出てみるとロボットじゃないスーツを着た七島が待っていた。
「大平、舞台に上がった時びっくりしたよ。お前が来るなんてひとことも聞いてなかったからさ。劇のこと話したっけ?」
あの短時間で客席を全部見渡すとは……恐ろしき役者アイ。
「聞いてなかった。あまりにもポスターにでかでかとお前の名前が書いてあって気になったんだ」
「いやー、参ったよ。大平が来るってわかってたら寝坊なんてしなかったんだけどな」
「…………は?」
聞き間違い……だよな。
「劇の方はどうだった? 俺の引退公演のためだけに後輩だけじゃなくてわざわざ先輩までも時間取って練習してくれたんだ」
ここであんまり悪いことは言えないぞ。
「ああ、まあ、よかったよ。今回はアドリブの練習だったのか? 台本がないにしてはうまくまとまってたんじゃないかと思うが」
「まあ、期せずしてアドリブの練習みたいになったわけだけど、お前がそういうってことは俺が見てないところでもちゃんと出来てたみたいで安心したよ」
「期せずして?」
「ほら、俺が寝坊しちゃったせいでみんな台本なくなったようなもんで大変だったわけだよ。代役でも立てればいいのに『七島先輩の代役なんて立てられません!』とか何とか言っちゃって、可愛い奴らだよ、まったく」
本当に寝坊したのかよ!
がっかりだよ!
「何時に起きた?」
「うーん、起きたら短針が右側にあった」
「午後じゃねえか!」
いかんいかん。
呼吸を整えないと。
ため息一つ。
「本当にかわいいなら次からはちゃんと寝坊せずに来てやれよ」
「いや、今日の夜で最後だから。もう寝坊する危険はない。いやー、演劇も楽しいんだけど、でも俺にはラジオDJという夢があるからな。君鳥ちゃんも来年で小学校だし、ラジオDJで養っていくには相当有名にならなきゃだろ?」
「君鳥ちゃん?」
「あれ? 君鳥ちゃんのこと話してなかったっけ? うちの妹だよ。『将来は青くんのお嫁さんになるー。』とか言って本当に可愛くて可愛くて、もう食べちゃいたいくらいなんだよー! 俺がどんな冗談を言ってもまともに信じちゃって、冗談だってわかってから怒って俺の頭をぽこぽこ叩くの。あー! 思い出すだけで今すぐに会えない現実に気づいて心が破裂しそうだ!」
「君鳥ちゃんは旅行中だったりするのか?」
「いや、帰れば会えるんだけど、夜公演終えてからだから家につくのが10時とかじゃん。俺君鳥ちゃんと言葉を交わせないじゃん? あー! もう今日帰っちゃおうかな! 今すぐ帰っちゃおうかな! でも遅くに帰ると寝顔が見られる! 一日頑張ってからの君鳥ちゃんの寝顔はまた格別ですよー! げへへ、げへへへへ。」
こいつはまともな大人になれるのだろうか。

劇場から離れ、待ち合わせまでにまだ時間があるし本屋でも行くかと思っていたところ、
「あれ、大平くんじゃないか」
僕を呼び止める声。
振り向くとそこには春だというのに真っ黒なロングコートを羽織った異様に背の高い男がいた。
その男は黒土という、性格真面目人間だ。
似たような授業をとっているから話すようになったが、僕から話しかけるのはもっぱらテスト前にノートを写させてもらう時だ。
「大平くん、新学期だからってあんまり授業をサボるのは良くないよ」
この大学は頭のおかしいことに新入生であろうとなかろうと入学式より前にも授業が入っているのだ。
「いや、新学期だから欠席も全部リセットされただろ? 今のうちに休んでおかないと」
「確かに全部リセットされたけど、そういう甘い気持ちでいるとまた単位が危うくなるよ」
とても優しい男なのだが、優しいからこそこういうところでもいろいろ言ってくる。
良心から出た言葉だからこそ厄介なのだ。
「ところで今日は何をしに来たんだ? 今日は日曜日なのに」
「黒土こそ今日は何をしに?」
「僕は今度東北に行こうと思って、遠野物語に関連する資料を図書館で調べてたんだ。一昨日の夜から調べはじめたつもりがいつの間にか今日の午後になってた。46時間って一瞬なんだ」
黒土は妖怪オタクだ。妖怪のためなら何徹でもする。妖怪に関しては変態だと言ってもいい。
よく見ると黒土の目にうっすら隈ができている。
「大平くんは何しに来たの?」
「僕は友達の劇を見にね」
黒土が驚いていた。
「大平くんに友達が……いや、なんでもない」
「僕に友達がいたらまずいか」
おら、喧嘩売ってんのか。
「いや、いや、大平くんも僕と同じで友達いない大学生なのかと思ってたからさ」
「まあ、別に多いほうじゃないけれども」
というか正直なところ黒土と七島以外の友達はいない。
けどこれは黙っておこう。
「あれ、左の手首、怪我したのか?」
「ああ、これ、ちょっとな。転んで捻挫しちゃったんだ」
「大丈夫か? 病院行った?」
「ああ、大丈夫大丈夫。病院も行ったし一週間で治るって言ってたから」
「ならよかったけどお大事にしるんだぞ?」
「そうするよ。それじゃ」
「あれ、この後用事でもあるのか?」
「ああ、まあ、ちょっとね」
純粋な良心は僕にはちょっと熱すぎるぜ。
「それじゃあ、また明日」
「ああ、それじゃ」

大学から東京駅へ。
新刊の中吊り広告を見ながらゆらゆら揺られている。
電車に乗っている時に気づいたが、ひなこちゃんの顔がわからない。
多分向こうも僕の顔なんて覚えているはずないだろう。
本当に合流できるのか?
なんかホームステイするときによくある名前を書いたスケッチブックとか持っていたほうがいいんじゃないか?
けど恥ずかしいから極力そのルートは避けたい。
カバンには……ノートとペンは入っていた。
でもまあ、多分大丈夫だろう。

包帯の巻かれた左手首を見る。
人間の身体に関節は、多分100個以上ある。
その関節のうち一箇所だけが少し使いづらいだけで、人間はここまで大騒ぎできる。
例えばテレビだとリモコンの2のボタンが壊れても全然困らない。
1が壊れてもチャンネルの∧のボタンでなんとかなる。
人間は強いようでつくづく弱い生き物なのかもしれない。
人間の強さは僕の左手首が壊れてても他の誰かが代わりをすることができるということだ。
ただ、いくらでも替えが利くというのは集団としては強さだが、個人としては弱さなのだ。
替えが利くと言われて喜ぶ人間はいない。
今、僕の左手首の代わりをしてくれる人はいない。
それは僕の欠陥なんだろうか。

東京駅の銀の鈴の前に着いた。
かなり人がいるので本当にこのままじゃ合流できそうにない。
仕方がないがやるしかないか……。
カバンに入っていたノートを広げる。
地面にうずくまりマジックペンで文字を書いていく。
ひなこってどういう漢字書くんだろう?
ひらがなでいいか。
『大平ひなこさん』
こっちの名前も書いたほうがいいかな。
『大平信彦です』
こういうのって書いたことも見たこともないからなんてかけばいいのかさっぱりだ。
『こんにちは』
書き終わったそれを眺める。
これだけだと若干寂しいな。
端っこにネコの絵を書いてみるが、すぐにその行為が恥ずかしくなった。
マジックペンで書いてしまったから消せない。
「あのー、大平信彦さんですか?」
「うわ!」
僕の後ろに制服姿のショートヘアーの女の子が立っていた。
「うさぎですか? かわいいですね!」
マジックペンで塗りつぶす。
今の僕は耳まで真っ赤だろう。
「はじめまして! 大平ひなこって言います」
「き、き、君は、」
「大平信彦さんですよね?」
「どうして僕が、」
「そこに書いてありますよ?」
とっさに自分の名前を隠す。
「そういうことじゃなくて、こんなに人がいるのにどうして僕が、」
「ああ、これだけ人がいても大学生くらいの若い人は立っている人の中では見当たりませんでした。なので一際目立つうずくまって何かしている人かなー、と」
目立っていたのか、僕は。
「それにしても恥ずかしがり方は昔と変わりませんね!」
「え? 僕のこと覚えてるの?」
「小さいころのことですし、少しだけですけど」
僕の方はひとつも覚えてなかったのに。
「今日からしばらくよろしくお願いします!」
「よろしく……」
なんか調子が狂うなあ。
「長いこと電車に乗ってたら疲れちゃいました! お家はどちらですか?」
「ここから1時間くらいのところだよ」
「それじゃあ早く行きましょう!」
高校生って元気だなあ。
黒土に少し分けてやりたいよ。

電車に乗っている。
「お家はどんなところなんですか?」
「結構便利なところだよ。近所には珍しい24時間営業のスーパーがあるし、駅からもそんなに遠くない」
「一人暮らしって結構大変なんですよね? 家事とか全部自分でやらないといけないですもんね」
「いや、慣れちゃえばそうでもないよ。まあ、僕はいつまでたっても慣れないけど」
今になって片付けがまともに出来なかったことを思い出した。
「少し散らかってるけど勘弁してね」
「いえいえ、泊めてもらえるだけで十分です!」
「それならいいけど……」
……。
会話が続かない。
「そういえば、さ。ひなこさんのひなこってどういう字を書くの?」
「『ひなこさん』って、小学校の先生みたいですよ? 『ひなこ』とか『ひなこちゃん』でいいです」
「じゃあ……、ひなこ……ちゃん」
「それで良いです。『ひなこ』っていうのは『雛祭り』の『雛』に『子供』の『子』ですよ」
「なるほど」
「画数が多いからテストの時とか大変なんです。少しその辺を考えて名前をつけて欲しかったですね」
「いや、でも可愛らしくていいんじゃないか?」
「そう言ってもらえるとうれしいです」
……。
またも沈黙。
「左手、どうかしたんですか?」
「ああ、ちょっとね」
「もしかして骨折ですか?」
「いや、捻挫らしい。何もしなければ痛みもないし、大丈夫だよ」
「それならいいんですけど……」
……。
だんだん一つの会話の塊が小さくなっている気がする。
「触ってみてもいいですか?」
「何にだ」
「手首ですよ。怪我してる方」
「僕は構わないんだけどおじさんに触ったら承知しないと言われてるからね」
「ああ、そうでした」
……。
「今日のお夕飯はどうしますか?」
「ああ、作るのも面倒だし近くのスーパーでお惣菜でも買って帰ろうと思ってたんだけど、雛子ちゃんはそれでいい?」
「私はなんでも構いません。むしろ出来合いのお惣菜なんて食べたことないから新鮮です」
結構なお嬢様なんだな。
本家の人でもそんなに金持ちってわけじゃないと思うんだけど。
「うちのお母さんが料理を手作りしたい派なので」
「そういえば本家に行ったときにお食事が美味しかったような覚えがある」
「『本家』って呼ぶんですね」
「え?」
「うちでは『本家』とか『分家』とか、そういうことは気にしません。だから信彦さんもあんまり気にしないでください」
気にしてたのはうちの父親だけってことか。
「ノブでいいよ。信彦さんだと小学校の先生みたいだろ」
「じゃあ、ノブさん! でいいですか?」

電車を降り、駅を出てスーパーに寄る。
雛子ちゃんは必要なものは持ってきているそうだから買い物は夕飯だけですんだ。
レジで気づく。
「やべえ……」
お金をおろすのを忘れていた。
というか今日は日曜日だ。
病院がやっていたからてっきり平日だと思っていた。
「お会計は982円です」
なけなしの千円札が……。
「千円からでよろしいでしょうか。18円のおつりです。ありがとうございました」
残金138円。
明日銀行行こう。

アパートの階段を登り家の鍵を開ける。
「どうぞ」
「お邪魔しまーす。うわ、」
「どうした? 入って入って」
「いや、もしかしてノブさんって、お片づけお苦手さんですか?」
「ああ、いや、ははは」
お苦手さんってなんだ。
しかし少しゴミを捨てたからと言って片付いた気になっていたが少し贔屓目で見ていた。
溢れかえる本と紙の山。
洋服が挟まって薄目で見てもえらいことになっている。
「随分散らかっているけど……ごめんね?」
「いえ、泊めてもらえるだけで十分ですよ!」
無理に言わせているような気持ちになる。

しばらく無言のまま夕飯を食べ、ソファーに寝転がってテレビを見ていた。
退屈なお笑い番組の無機質な明かりを眺めていたらだんだん眠くなってきた。
「雛子ちゃん、僕はソファーで寝るから、ベッドで寝てね。ふわあ……シャワーも勝手に使って構わないから……おやすみ……」
深い眠りのうちに落ちていく。

ここはどこだろうか。
大学?
雨が降っているのに僕は傘を持たずに立っている。
気づくと目の前に黒いヒトガタがいる。
それは全身に渦のような波をうたせたかと思うと……
黒土だ。
僕の目の前に黒土が立っている。
しゃべろうとするが何も台詞が出てこない。
まるで僕がしゃべらないことが決められているみたいだ。
「君が嫌いだ」
黒土が言う。
「君が嫌いだ。もう二度と僕の目の前に顔を見せないでくれ」
雨が執拗に僕の顔に叩きつける。

目が覚めた。
また夢を見ていたようだ。
嫌な夢だった。
当分黒土には会いたくならなくなるような。
「ううーん……」
「あ、目が覚めましたか」
台所から音がする。
現在時刻6時27分。
雛子ちゃんはエプロンを着て流しの前に立っていた。
というか、
「ここどこだ?」
「まだ寝ぼけてるんですか? ノブさんのおうちですよ」
「僕はこんなに片付いた家に住んでいた覚えはない。まさか、」
「私が片付けておいたんですよ」
腰に手を当てて仁王立ちの雛子ちゃん。
「片付けは得意なんです」
「いいにおいがする」
「朝ごはん、作っておきました。女の子が作る定番料理の肉じゃがです」
Vサイン。
「材料はどうしたの?」
「冷蔵庫の中身は全部ダメになっていたので買ってきました。24時間営業のスーパーって本当に便利ですね!」
「お金はどうしたの?」
「お母さんに持たせてもらったお金を使いました。それにしても食べ物が一つもないなんて、今日の朝ごはんはどうするつもりだったんですか?」
「ああ、」
失念していた。
「僕は朝食べない派だから忘れてた」
「え、それじゃあ……」
とても悲しそうな顔をする雛子ちゃん。
「大丈夫、面倒くさくて食べてなかっただけだから、あれば食べる」
顔がぱーっと明るくなる。
「それじゃあ持ってきますね!」
「じゃあ僕も一緒に運ぶよ」
立ち上がり伸びをする。
やっぱりソファで寝ると身体が痛いなあ。
雛子ちゃんがご飯を運んでくるのだが、そういえばあそこには穴が開いていたのでは……?
危ない!
「ぎゃあ!」
およそ女の子とは思えない叫び声を上げて倒れそうになった雛子ちゃんの腕を、僕はとっさに掴んでいた。
「あ、ありがとうございます」
「いや、忘れてた僕が悪い。そこに穴が開いてたこと」
「手、」
「あ、すまん」
手を放す。
「言いつけ、破っちゃいましたね」
冷や汗が背骨に沿って伝う。
「大丈夫です。内緒にしますよ。だから、ノブさんも内緒ですよ?」

朝ごはんは、肉じゃがと鰆の塩焼き、お味噌汁とご飯だった。
「どうです? 美味しいですか?」
「うん、凄く美味しい」
「よかったー。安心しました」
魚の塩焼きは正直今までそんなに好きじゃなかったのだが、それはうちの母親が下手だっただけのようだ。
「肉じゃがも食べてください!」
大きめに切られたじゃがいもを口に運ぶ。
「美味しい」
「そうですか!」
「肉じゃがなんてお惣菜売り場に置いてあるやつしか食べたことなかったから」
温かい肉じゃがを食べるのは初めてだ。
朝からお茶碗一杯なんて食べられないだろうと思っていたが、いつの間にかご飯はなくなっていた。
僕の箸が一瞬お茶碗の上の空を切るのを見てごきげんの雛子ちゃん。
「おかわりよそってきましょうか」
これ以上ないほどニコニコしております。
「じゃあお願いします」
これは太るぞ。

「私はそろそろ高校行かないと」
「ああ、そうか。僕も準備しないとだな」
「お弁当も作りました。一応聞いておきますけど、嫌いなものってないですよね?」
「いや、結構あるけど……」
好き嫌いは多い方なのだ。
「まあ、私の手にかかればどんな苦手な食べ物も食わず嫌いだったと言わしめて差し上げましょう!」
「随分な自信ですね」
まあ、朝ごはんがあれだけ美味かったことを鑑みれば無理もない。
「ちなみに何が入ってるんですか?」
「それは開けてみてのお楽しみです! それじゃあ、もう行かないとなので!」
靴のつま先で地面をコンコンと鳴らす。
そこで気づいた。
「あ、ちょっと待って!」
「はい?」
「確かこの辺に……あった」
合鍵だ。
雛子ちゃんは始業式だろうから早く帰ってくるだろう。
「じゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃい」
僕も大学行くか。
本の山の下の方から国語辞典を引っ張りだした。

とはいえ僕もクズ大学生の端くれである。
授業には出ない、がモットーだと言ってもいい。
体面を保つために単位が取れる程度には授業に出るが、休める時には休む、これは大学生の必要条件だ。
このチキンレースは社会人になったら二度とできない危険な香りのお遊びだ。
本当のことを言うと、黒土に会いたくない。
なので今日は大学の近くにある本屋に行こう。

忘れずに銀行でお金を下ろす。
とりあえず1万円。
まだ口座には2万円以上あることを確認して一安心。
しかし今月いっぱい雛子ちゃんがうちにいるとしたら、結構な額のお金がかかるんじゃないか?
おじさんに先払いにしてもらうように言えばよかった……。

本屋に来た。
ここはかなり大きく、大学関係者も多く利用する言ってみれば行きつけの本屋だ。
まず新刊の棚を物色する。
暇な大学生のなので本屋に来るのは今月何度目かわからない。
当然欲しい本は大体すでに買っている。
それでも好きな作家の新刊が何冊か出ているので手に取る。
お、〇〇賞の本だ。
この賞の作品はどれも光るものを感じるので買ってしまう。
少し帯が派手なのが欠点だが、まあ一般客を惹きつけるためには仕方あるまい。
4冊ほど抱えたところで気づく。
お金そんなにないんだっけ。
「今日はこれだけか」
今手に持っている本は今買わなくても次来た時には絶対に買う本である。
故に今買う。
レジに進む。
「4826円です。カバーはお付けいたしますか?」
「お願いします」
「ポイントカードありがとうございます。10026円からでよろしいでしょうか。5200円のお返しです。ありがとうございました」

カバンにビニール袋ごと本を突っ込んで雑誌コーナーへ向かう。
財布の都合上買えない月刊の文芸誌をパラパラめくる。
多分ここでしか読めない短編とか載ってるんだろうなと思うけど買い始めるとキリがないので買わない。
告知が目に入る。
「新人賞か……」
これだけ本を読むんだから小説でも書いてみればいいじゃないかと言われたことがある。
僕も書いてみるかと思ったことはある。
だが、僕には書ける話がなかった。
だから諦めた。
それだけのことである。
正確に言うと書きたい話はあった。
頭のなかにストーリーが浮かぶことがないわけじゃなかった。
でも書けなかった。
自分の中に浮かぶストーリーを文字に起こしても僕の感動が読んだ人にそのまま伝わるとは到底思えなかった。
技術のないことを言い訳にして夢に生きる道を避けて通っただけだ。

お弁当は何処で食べよう。
『何処』というほど選択肢はないのだが。
結局本屋の近くの公園で食べることにした。
どんなお弁当なんだろう。
そぼろでハートとか書いてあるのかな……。
いや、昨日あったばかりの女の子の作る弁当だぞ?
何考えてるんだ! 何考えてるんだ僕!
でも雛子ちゃんはわざわざ僕のところに泊まりに来たんだぞ?
光生おじさんの家とかなら年も離れてて奥さんもいるから東京からちょっと離れてても二時間ぐらいかけて通えば別にいいと思うんだけどな。
光生おじさんも時間かけて東京まで通勤してるんだし。
……僕は雛子ちゃんのこと覚えてなかったのに向こうは覚えてくれてたな。
やっぱそれって気があるってこと……?
それにしても雛子ちゃんは結構かわいい顔立ちをしていると思うんだけど、あんな子がいたら僕も覚えているものじゃないかな。
……色々考えてないで食べよう。
きっとお腹が空いているんだ。
だからこんなにとりとめのないことが頭に浮かぶんだ。
そうだよ。今何時だ。
13時ピッタリか。
雛子ちゃんも高校でお弁当食べてるのかな……。
手で頬を叩く。
食べよう。食べよう。
適当なベンチに座りカバンから包を取り出す。
出てきたお弁当箱はサイズが小さめでいかにも女の子が男の子のために選んだような箱だった。
……といっても今の感想は妄想レンズを通して見たもので他の人が見れば普通のお弁当箱なのだが。
開けるとそこには……別に普通のお弁当だった。
ご飯が半分詰まってて、残りのうち半分に豚肉の生姜焼きがあり、また半分にゴボウのきんぴら、残った部分にミニトマトが一粒入っている。
ご飯と豚肉まではいいが、ゴボウと人参とミニトマトはいただけない。
朝の会話を思い出すと、「どんな嫌いな食べ物も食わず嫌いだったと言わせましょう!」だったかな。
うろ覚えだ。
まあ、そこまで言うなら、このミニトマトも特別な処理が施してあるか特別なところで採れたものなのかもしれない。
ぶち、ぱく、うん、これは、ミニトマトだ。
公園の茂みに吐き出した。
普通のミニトマトじゃないか!
ご飯で口直しにする。
多分これはダミーだ。
こっちのきんぴらの方は僕でも食べられるようになってるはず。
ぱく、ぼりぼり、あれ?
本当においしい。
今まで僕は本当に何を食べていたんだろう。
きんぴらごぼうって美味しかったんだ!
豚肉の生姜焼きも美味しいし、ちょっと量は少ないがこれくらいが健康にはいいのかもしれない。

お弁当を食べ終わり、本屋で立ち読みをしていた時だった。
「大平くんじゃないか」
「うわあっ!」
黒土だった。
「授業をサボってこんなところで何をしているんだ?」
「えーっと、えーっと、」
頭のなかで夢に出てきた黒土が回る。
『君が嫌いだ』『君が嫌いだ』
「ほら、資料だよ。資料」
「何の資料だ?」
「れ、レポートの。気になっている事があるんだ」
「ミステリー関連のレポートなんてあったかなあ」
『君が嫌いだ』『君が嫌いだ』
「それにしても46時間も勉強なんてするものじゃないね」
「あ? ああ」
「英語の授業で寝ちゃったよ。今年度初だ」
『君が嫌いだ。もう二度と僕の目の前に顔を見せないでくれ』
「どうした? 具合でも悪いのか?」
「いや、別に」
「僕は別に君がさぼってたなんて教授に告げ口をしたりはしない。それに具合が悪いなら家で寝てた方がいい」
「黒土は僕が嫌いなんだろ!」
はっとした。
突然何を言っているんだ。
あれは夢の中のことだっていうのに。
「何を言うんだ。具合が悪いんだろ?」
「う、うん。具合が悪いんだ」
優しい声かけのはずなのに悪意があるような感じがする。
「大丈夫か? 家は何処だっけ? 送るよ」
「い、いいよ。一人で帰れるから。じゃあ!」

家に帰ってきてしまった。
「ただいまー」
誰もいない。
「えーっと、この辺だったかな」
雛子ちゃんが片付けをしてしまったが、僕の探しものはもっと奥に……、あれ?
なくなっている。
親戚に会うときに顔を確認するために実家から持ってきたアルバムが。
もしかして……いや、そんなはずは。
実家に電話をかける。
ぷるるるるぷるるるる
出てくれ……出てくれ……。
「は~い?」
「もしもし、信彦だけど」
「あれ、ノブ? しばらく連絡くれなかったから死んだかと思った」
「聞きたいことがあるんだけど」
「なんか急いでるの? な~に?」
「大平雛子って名前に聞き覚えある?」
「何よ、和哉おじさんのところの雛子ちゃんでしょ? 葬式以来だからもう5年も会ってないね」
よかった。勘違いか。
「でもおかしい」
「何が?」
「前会った時は小学生だったよね。高校生の女の子の顔しか思い出せないわ」

玄関の扉が開く。
「ただいまー」
「おかえり」
「玄関で待っててくれたんですか? お夕飯作りますからもう少し待ってくださいね」
「雛子ちゃん」
「なんですか? 変な夢でも見たんですか?」
「雛子ちゃん、君、誰だ?」
「な、何を言っているんですか? 私は和哉おじさんのところから来た大平雛子ですよ?」
「自分の父親のことを『和哉おじさん』って言うか?」
「それは、ノブさんにわかりやすいように……」
「今日は始業式のはずなのに何をしてたんだ?」
「何って、部活の勧誘ですよ」
「何部?」
「水泳部ですよ? といってもうちの学校は屋外プールしかないので夏場しか活動できないんですけどね」
「僕のアルバム、何処にやった?」
「ああ、片付けをした時に見つけたんですけど押し入れの奥の方にしまってしまいました。必要なら出しますよ?」
「母さんや和哉おじさんの記憶に何をしたんだ?」
「……ノブさんは探りを入れるのが下手なんですね。いいですよ。知りたいこと全部教えてあげます。でも先にお夕飯にしましょう?」

そのあと僕は終始無言でお夕飯を終えた。
雛子ちゃんは取り繕うように「美味しいですかー?」とか「ブロッコリーも食べないとダメですよー?」などと話していたが、僕は彼女が嘘をついていたということで頭がいっぱいだったために何も頭に入ってこなかった。

「私は……なんて説明すればいいんでしょうか、こんなふうに話すのは初めてなので。でもノブさんもこんなふうに高校生の女の子を問い詰めるのは初めてでしょう? はい、説明します。私は、他の人とは違っているのです。どんな人間でも違ったところくらいあるって? いえ、私は違っているどころではないのです。私は人間じゃありません。簡単にいえばユメクイなのです。ユメクイ。漢字で書けば、夢を、喰らう、で夢喰い。あなたの夢に邪神の影があるとお告げがあったのでここに来たのです。はい、私はお告げによっていろいろな人の元に行き、悪夢を食べて生きています。普通のご飯も美味しく食べますが、食べ物は身体の中に入って出て行くだけで、体を動かす力となっているのは悪夢、ただそれだけです。食べ物を吸収しないので、年も取りませんし、死ぬこともありませんが、他は人間と大差ありません。邪神は人々の夢に潜み、夢を侵して、現実世界での反応を見て楽しんでいます。邪神から見ればただのお遊びですが、人間から見れば大変なことで、中には自殺にまで追いやられるケースもあって、放ってはおけません。だから私はいろいろな人の記憶を、付け足したり消したりしながら、人の生活に溶け込み、いろいろな人の夢を食べて生きています。……寂しい、ですか? 確かに他の人から見れば寂しい暮らしに見えるのかもしれません。私からすれば普通のことですが……でも初めて会う人が知り合いのように目の前に表れたり、昨日まで楽しく話していた人が私を群集と同じ目で見ているときは、少し寂しいですね。誰も私のことは覚えていません。私のことは私のことしか覚えていない。それでも人を救えるなら、それでいいんです。いえ、これは私のエゴですね。私は自分が生きるために嘘をつき、人を騙し、最後には記憶を消す。そうしないと生きていけないのです。和哉おじさん夫妻にも、ノブさんのご両親にも、その他の親戚の方にも、私の存在についての記憶を埋め込ませていただきました。でも事が終わればすぐに元に戻します。あとアルバムは本当に押し入れの奥にありますが、そこに意識が向かないようになっているだけなのでもう一度探せば見つかるはずです。そういえば、東京駅で最初に会った時、ノブさんを見つけられた理由について、適当なことを言ってごまかしましたが、本当はノブさんに憑いた邪神の影を見てたんです。悪夢を見る人は背中から黒い霧が湯気のように立ち上るので。それと、私とノブさんは多分初対面です。全部嘘だったんです。あれ、もう眠くなってきました? 薬が効いてきた頃ですかね。だいじょうぶです。今夜のうちにケリを付けます。おやすみなさい。」

おかしな話を聞いていたからだろうか。
ここが夢の中だとはっきり分かる。
夢の中はまだ雨が降っている。
場所はいつの間にか見覚えのない住宅街へと変わっている。
日本でよく見る景色ではなく、何処の国の住宅街かはわからない。
降りしきる雨の雫の中をゆっくりと前に進む。
どこまでたっても景色は変わらず、ぬかるんだ足元は裸足に絡みつく。
雨が降っているのに音がないのに気づく。
立ち止まりたいのに僕の足はゆっくりと、規則的に前に踏み出す。
目の前に人影が現れて僕はようやく立ち止まる。
黒土が立っている。
「お前が嫌いだ。殺してしまいたいくらいな!」
首を締め付けてくる。
そのうちに住宅の一つの扉が開くと、次々と知り合いが出てくる。
「殺せ……!」「殺せ!」
鈍器や刃物を持ってこちらに向かってくる群衆。
首を締め付けられているはずなのに苦しくない。
しかし破裂するほどの恐怖を感じる。
その時、一筋の光が上へ上へと登るのが見え、空に声が響く。
「あなたの正体は、雲です!」
空が晴れる。その光にあたった群衆は次々に溶けてなくなっていく。
黒土が言う。
「夢喰いのこと、忘れるなよ」
ニヤリと笑った黒土は、一瞬人の形でない黒い塊に変化し、すぐに溶けてなくなった。

「……おはよう」
言って自分に驚く。
僕は今誰におはようと言ったんだ?
起き上がり、伸びをする。
どうやらソファで寝てしまっていたらしい。
身体がバキバキだ。
見違えるほど綺麗な部屋を見て思い出す。
「片付けに目覚めたんだっけ」
そう、一昨日の晩僕は片付けに目覚めて徹夜で片付けをしたんだった。
何か飲もうと冷蔵庫を開けると、いつもは空っぽの冷蔵庫の中に幾つかラップをした食器が入っている。
「料理に目覚めた……んだったかな」
きんぴらごぼう……僕ゴボウって嫌いじゃなかったっけかな。
肉じゃが、一昨日の晩に作ったやつだな。
そう、おいしいおいしいって……誰に言ったんだろう?
とりあえずこれ食べて大学行こう。

1限の英語の授業で黒土に会う。
「よう黒土」
「あ、大平くん。具合は大丈夫なのか?」
「具合? 僕具合悪そうにしてたっけ?」
「昨日はすごく具合悪そうだったじゃないか」
「昨日? 昨日?」
昨日何してたっけ?
「昨日は授業に出てなかったか?」
「何言ってるんだ。昨日もきっちりサボったじゃないか。それで本屋にいて、ねえ、ほんとうに大丈夫か?」
「ごめん、覚えてないや」

そのまま5限まで授業を受けて本屋に寄って帰り道。
授業に出ても内容がわからないどころか出席したかどうかさえ、どの授業でも判然としなかった
本屋では結局何の本を買っていないのかわからなくて何も買わずに帰ってきてしまった。
「何かを忘れている」
真っ暗な帰り道、街灯の下に男が立っていた。
ジャージ姿で猫背、街灯の下にいるのになぜか暗い印象を与える男だった。
「お兄さん、お困りっすか?」
こういう人は無視に限る。
「無視されちゃ悲しいっすよ! 記憶、ないんでしょ?」
振り向く。
「教えてくれって雰囲気がプンプンするっすよ!」
「僕の記憶のこと、知ってるのか?」
「俺は知らないっすよ。お兄さんが知ってるっす。」
「絶対に忘れちゃいけないことのような気がするんだ。教えてくれ!」
「せっかちっすねえ。しょうがないなあ。『Nothing hurts like the truth』っすよ」
「なんだそれは」
「これ以上は教えられないっす。この事実があなたを傷つけるかどうかはわからないっすけど、記憶は大切に」
街灯がチカチカと瞬いた、明滅のその瞬間にそいつは消えた。

家に着いて机の引き出しを漁る。
それは意外とあっさりと出てきた。
『Nothing hurts like the truth 主演:七島青』
パンフレットの中から一枚の栞がひらひらと落ちた。
その栞を拾い上げる。
青い花は蛍光灯に照らされて輝いている。
その栞に向かって叫ぶ。
「僕の記憶を取り返してくれ!」
自ら光を放ち輝きだす栞。
なだれ込む無数の情景。
………
……


洗面台で顔を洗う。
僕は一昨日からのことを全て思い出した。
雛子ちゃんがうちに来たこと。
料理も片付けも全部雛子ちゃんがしてくれたのだ。
雛子ちゃんは孤独に邪神の魔の手と戦う夢喰いだった。
タオルで顔を拭く。
誰も覚えていない、それでも人を救えればそれでいいと言う彼女。
うたかたのような日々は彼女以外の記憶からは消えるはずだった。
でもそれって本当にあんまりじゃないのか?
白いタオルを見つめる。
どんな思いで彼女は毎日を過ごしているんだろう。
寂しくないと言ったのは強がりじゃないのか?
夢だけを消化して年を取らない彼女は、永遠に生きる反面、誰の記憶にも残らないのだ。
それがつらくないわけない。
誰も覚えていない存在なんてあんまりだ!
傲慢だとかひとりよがりだって言われたって構わない。
僕だけは彼女を、この二日間を忘れてはいけない。
そして彼女にもう一度出会った時に、僕だけでも覚えていたと伝えなくては。
タオルを洗濯機に投げ込んだ。
このことを何かに書こう。
文章にして保存しておこう。
いつか彼女と一緒に読んで、笑い話にでもしよう。
「だから、どうか、どうかまた、いつか。」

エンディングテーマ 「水彩」


あとがき

最初に断っておきますが、今回エンディングテーマにtakumiさんの「水彩」という曲を使わせていただきました。

ご連絡した際にも、ホームページに載せることを快諾してくださいました。

曲の雰囲気も歌詞も素晴らしくて、実際に僕の目の前で読んでもらった時にもこの小説を読んでる間より最後の曲で泣く人がいらっしゃいました。

本当にありがとうございました。

 

さて、今回は大平くんが大学生の頃の話なので時代的には西暦2000年、大平くんはまだ花粉症じゃないですし、黒土先生も一人称が僕ですね。ケータイ電話も普及が進んでなかったですし……、でもケータイ電話がない方が文章にしやすいんですよね。あれは思考の波を途絶えさせるものなので。電車の中とかでみんなスマホに熱中してたら小説にならないと思うんですよ。それにしてはパソコンが家にあるんです。一人暮らしの大学生の家にパソコンがあったっていうのはもしかしてすごいことなのでは?
可愛い女の子を出したのは可愛い女の子にいろいろしてほしいことがあったからです。あー、僕も可愛い女の子に薬盛られて記憶改変されたい!

という割にはわざとらしくてあんまりかわいくないなーとか、かわいこぶりすぎとか、男の創造する女の子だとか、そういう感想が出ると思うんですけど、今回の雛子ちゃんは大平くんに漬け込むためのキャラなので大平くんが気に入ればそれでオーケーです。夢喰いあざといねー。

そういえば『Nothing hurts like the truth』っていうのは今回のキーフレーズなんですが、トーキョーN◎VA(というTRPG)の公式シナリオの題名でもあるんですよね。

青くんはそのシナリオで、ロボットスーツを着て、最後のシーンでだけ大暴れしました。

こういううまい巡り合わせが起こるのはなぜなんでしょうね。

あ、そういえば、大平くんは、雛子ちゃん以外からノブさんと呼ばれることを嫌がるんです。

村咲ちゃんだけは頑なにノブさんって呼ぶんですけどね。

 

はい、そんな感じで「Forget Me Not [現実]」はこの辺でお開きです。

次回、「Forget Me Not [空想]」に続きます。

次で第一部完となります。お楽しみに。