11月23日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

イチョウ並木が黄色くなって、溜息も白く色づいていて。

空の色だけは前と同じで青いままなのが、なんだか不思議になってくる季節です。

過ぎ去る季節と同じだけ、自分が成長できていたら良いのにと少しだけ思います。

振り返ったときに今と違う景色が見えたなら、そう思い続けていた自分がいます。

この世界に魔法はなくて、奇跡なんて起こりっこなくて、だからこそ頑張らないといけないんですよね。

雨も降るし、風も吹くし、それでもうずくまっているだけではつらいだけでした。

誰かが迎えに来るなんて、そんな偶然に縋っていたって何も変わりはしないのです。

もう一度振り返っても何も変わらず、青空の下に鮮やかな黄色があるだけでした。

魔法のない世界で本当に良かった。

私はカバンを背負い直して、前に向かって歩いていきます。

※この物語はフィクションです

0 コメント

11月22日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

ずっと好きだった曲を、しばらく聞いてないことに気がついた。

白馬に乗った王子様を、待ち続ける自分が嫌になった。

自分の感情ばかりを見ていて周りの景色を全く見ていなかったことが、妙に気持ち悪くて穴が開いていたみたいだ。

そんな感じの日々を送っている。

王子様が来る日を夢見てたから、王子様に見せるための自分ばっかり見てた。

音楽を自分の気持ちを操作する道具にしてしまっていたから、純粋に好きだった曲が聴けなかった。

自分から動けば景色は変わって、きっと目が離せなくなるよ。

耳に流す曲はとびきりぐちゃぐちゃしたラブソングにしよう。

お姫様が迎えに行く筋書きがあったっていいじゃない。

私の物語は昔話なんかじゃないんだから。

※この物語はフィクションです

0 コメント

11月21日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

有名な漫画が、最終回を迎えたというニュースを見ました。

私はその漫画を読んだことがないので、特別な感慨があったわけではありませんでした。

何かの最終回を見る度に思うのですが、登場人物は死なないうちに話は終わります。

その後の人生は語られないまま終わります。

最終回なんて過ぎてしまったとして。

私の人生の最終回は、もうとっくに終わってしまっていたとして。

「月がきれいだなあ」

なんてことはない独り言も、描かれるからつぶやいていたのに。

誰も見ていないことがわかってもまたつぶやいてしまうのは、私がまだ期待しているからでしょう。

少しずつ空気が澄んできて、私の好きな季節がやってきます。

※この物語はフィクションです

0 コメント

11月20日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

リビングに、額に入れて飾られている小学校の頃の絵。

実を言うとあれを見るたびに私は気持ち悪くなる。

家族で動物園に行く絵だ。

たくさんの動物と、女の子と、男の人と女の人が描かれている。

その日の図工の課題は、家族との絵を描くことだった。

私は、動物園に行ったことがなかった。

両親はその絵を見て、私を動物園に連れていき、絵を額に入れて飾った。

私が小学校の頃にはもう、父も母も不倫をしていたのだと記憶している。

馬鹿な私は、二人の不倫相手が家族になれば両親は仲良くなると思っていた。

馬鹿な両親は、私の作った偽物家族の絵をリビングに飾って、今もまだ偽物家族を演じている。

※この物語はフィクションです

0 コメント

11月17日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

実家から駅までの間にコンビニが一つあって、学生時代の私の日課はそのコンビニで飲むヨーグルトを買うことでした。

就職してから初めて実家に戻ってきたのは、親に顔を見せに来たとかではなく、有休消化と現実逃避のためです。

日常という漠然とした永遠に、「もうやだなあ」というこれまた漠然とした恨みを持っていたのは否めないのです。

有休消化という名目、親に顔を見せるという名目、それ以上に私は非日常に救いを求めていました。

実家の最寄り駅を降りて、坂を登っていくとコンビニがあります。

毎日通ったコンビニは、一年弱経った今でも変わらないままでありました。

それでもそのコンビニに入る私が非日常を感じてしまうことに、言いようもない感傷を覚えます。

毎日手に取った飲むヨーグルトを、あまりおいしくないと感じた日が数知れなかったことを、忘れてはいないのです。

そこにあったのが惰性の日々でも、今に比べたら……、そう思ってしまう私も認めてあげたいと思いました。

明後日の新幹線まで、多分また一度は嫌になる私のために、飲むヨーグルトを買ってってあげましょう。

※この物語はフィクションです

0 コメント

11月16日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

起きるのが億劫になった。

暖房をつけることにした。

寒かったのでダウンのコートを出した。

一日は朝と夜を周期的に繰り返し、気温は連続的に変化する。

その中に、不連続的に変化する僕の日常が、冬を呈している。

連続的な曲線に境界を引くのは人間の所業で、境界の引き方を個性だと言ったり、教育だと言ったり。

僕の理想は誰かの不健康だったり、誰かの理想が僕の拒絶だったりする。

兎にも角にも、今日は冬だった。

電車の中、ダウンのコートを着てきたことを後悔するけれど、いつもの冬とあまり変わらない。

境界を引くのはいつだって僕で、忘れちゃいけないことなんだって頭の中で念を押した。

※この物語はフィクションです

0 コメント

11月15日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

駅がゆっくりと車窓に止まった。

視界の中央、線路の対岸に男女が立っている。

とても楽しそうな二人はおどけたように身体を揺らしながら話している。

僕が吊革を握りながら黙って見ているのを二人は気づかない。

そのうちに駅は右に向かい、相対的に僕の視界は左に向かう。

爪先に唐突な痛みが走って、うげっと声を上げる。

隣に立つ人が謝ったので、反射的に僕も謝る。

お腹が空いたから、早く帰ろう。

最寄りからの道、月が見えないことがやけに気になる夜だった。

帰ってから靴下を脱いだら親指が紫色に腫れていて、参ったなとつぶやくしかなかった。

※この物語はフィクションです

0 コメント

11月14日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

先輩は貼らないカイロの使い方を知らなかった。

私が渡したビニールから出したてのカイロを、ただ大事そうに握って寒そうにしていた。

私が使い方を教えて、先輩は必死に振って、そんなに暖まらないものだったんだ、とがっかりしていた。

「時間が経てば暖まりますよ」

「そんなもんなのかなあ」

「原因って一つとは限らないものじゃないですか」

カイロが暖まらないのだって、不良品だからじゃなかったし。

先輩は、そっかー、と言いながらカイロを振る。

「そうしたら、冬が寒いのの原因も一つじゃないのかもしれないね」

私は冷たい手をポケットの中でギュッと握りながら、そうだったらいいですね、と言った。

※この物語はフィクションです

0 コメント

11月4日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

クレームブリュレの表面のカラメルをスプーンで割る。

私は今日という日を愛している。

苦いエスプレッソも甘いカスタードと一緒に食べてしまえる昼下がり。

どこからか聞こえる音楽も彩りを添えてくれる。

おいしくない昨日だって、千円ちょっとで物語の一ページに変えられるんだ。

私の消化器官は想像以上に強くある。

これから訪れるどんなストーリーも、食べてしまえるわ。

私にはおいしいお菓子が付いている。

悲しいときには泣けば良い。

その後待ってる甘いものは、きっとおいしく食べられるはず。

※この物語はフィクションです

0 コメント

11月3日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

僕はダメな人だ。

要領が悪くて仕事も出来ない。

だからといって性格が良いかと言ったらそんなこともなく、ダメな人として生きている。

生きていることに抵抗があり、他の人類に対して深い嫉妬を持っていて、どうしようもないタイプの人間だ。

恨めしい人を殺してやりたいとも普通に思うし、嫌いな街を火の海にしてしまいたいと思うことだってままある。

それを実行に移さないのは僕の凡人さが関係していると思う。

僕には趣味があって、その趣味で褒められることもあって、その言葉を心の支えにしている。

心の支えなんてなければ、気が向いたときに死んでしまえたかもしれないと思うこともある。

けれども僕はまだこうやって生きているのだ。そんな僕を貶すやつは貶せば良いのだと思う。

どうせダメな人なのだから、貶されたって変わるようなダメさではない。

※この物語はフィクションです

0 コメント

11月2日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

耳を塞ぐように、丸くなって縮こまって、浴槽の中のおへそを見ていた。

どうして人の気持ちが分からないのか考えていた。

ゆらゆら揺らぐ水面、広がる波紋と照明の光と影。

そのどれもが分かるはずないのに、なぜ人の気持ちが分からないことだけが苦しいのだろう。

分からないことばかりがこの世の中にはあって、自分が分かろうとしているものの方が少ない。

分からないことを分かろうとしている、分かろうとしているのに分からないから苦しい。

考えてみたら、私の気持ちを分かっている人だって一人もいないのだ。

私に理解を求めるあの人たちは、私のことをどこまで理解しようとしているのかな。

それだって、私に分かるはずのないことだ。

いや、きっとそれだって怠慢で、言い訳の一つに過ぎないのだけど。

※この物語はフィクションです

0 コメント

11月1日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

好きだった人と歩いた道を、一人で歩く。

好きだった人の好きだった曲を聞く。

ずっとこの曲は、恋人に先立たれた悲しみを歌ってるんだと思ってた。

少なくとも好きだった人はそう言ってた。

全然そんなことないじゃない。

あの人はきっと、好きな人に振られたことなんてないんだわ。

死んだのはあの人の中の私だけ。

あの人が描いていた理想の中の私だけ。

今日の風は昨日より冷たい。

もうじきこの街もイルミネーションに包まれる。

※この物語はフィクションです

0 コメント

10月31日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

私、今日は少しだけ大きなリボンを付けてきたの。

それなのに、先輩全然気づいてくれなくて。

話しかけるだけだって勇気が要るのに、ましてやトリックオアトリートなんて恥ずかしくて言えない。

お菓子が欲しいわけでもないし、いたずらがしたいわけでもない。

ただかわいいリボンを見て欲しいだけなのに。

ハロウィンなんてただの言い訳で、少しかわいい服を着たいだけ。

気になる先輩に普段と違う私を見せたいだけ。

今日は先輩は男の子とばっかり話してる。

男の子の一体どこが良いのかしら。

いつもより目線が泳いで、私のリボンなんてこれっぽっちも見てくれない。

※この物語はフィクションです

0 コメント

10月30日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

交わらない視線。

あなたはきっと別の人の瞳を見ている。

あなたと私に接点があるわけじゃない。

私が勘違いしただけだったんだ。

私にとっての特別は、あなたにとっての普通。

あなたにとっての特別は、その視線の先にあるのだろう。

今、私がここで霧になって、大気に溶けてしまっても、あなたはきっと気づかない。

絶対に釣り合わない、傾いた天秤

私が心の中であなたと呼ぶ人。

あなたはきっと私のことを心の中で彼女と呼んでいる。

※この物語はフィクションです

0 コメント

10月26日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

雲ひとつない青空は、少し霞んでいて不自然だった。

三日遅れで届いたのはメールではなく手紙で、手に返ってくる重みが嫌になる。

息を長く吸って、潜水みたいに一息に読み切って、強く呼吸を繰り返した。

あなたの書いた文章がこんなにテキトーに消費されるなんて、あなたはきっと想像もしていないはず。

「もうあなたの思い通りにはされたくないのよ」

つぶやいたところまで、恣意的なキラキラした色を感じてしまって気持ち悪い。

あなたの描く物語では、さよならさえきれいな色にされてしまう。

そんなあなたに一目惚れして、そんなあなたが嫌いになった。

濁った青空は、私の好きな季節を騙っているみたいだった。

その薄い白に煙を足す行為すら嘘みたいに光るから、残った灰が本物だと確かめてから土に埋めた。

※この物語はフィクションです

0 コメント

10月25日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

学生時代の写真を見つけた。

学生時代の俺が写っていた。

友人から電話が来て、久しぶりだなと言って笑った。

一緒に買って読んだ本の記憶が、お互いに食い違ってしまった。

彼は深刻そうな声で、生活費に困っていると言う。

明るかった彼には似合わない話題だと、思った記憶を確かめる相手はいない。

電話を切ってから、なぜ貸してやろうと言えなかったのか不思議になった。

出世払いなんて、期待してないことの言い換えじゃなかったのか。

少し昔に聞いていた音楽を流した。

あの日の俺はもういない。あの時の物語はもう書けない。

※この物語はフィクションです

0 コメント

10月24日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

背中から羽が生えた。

前から鏡に写しても見えないくらいの翼だから、私の思いってこのくらいのものなんだと思った。

通勤快速に乗りにくくなっただけだと、思った。

今日は映画を見るために有給を取っていたので、満員電車には乗らなくて済む。

彼からの誘いのメールにはこう返信した。

「一週間前に駅前で借りてきた映画が、今日中に見ないと延滞してしまう」

その程度の翼だったのだ。飛べるようになるはずなんてない。

この時期は風も冷たいし水も冷たいよ。

そんなこと、言う必要はない。

生えてしまった羽のことも、特段彼に話そうとは思えない。

※この物語はフィクションです

0 コメント

10月23日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

目が覚めたときには、雨音は過ぎ去って青い空だけがあった。

すべて忘れ去られてしまったみたいだ。

変わらないものはないと人は言う。

それが救いだと言う人もいる。

君たちはきっと、僕のように忘れたりはしない。

つらいことも、悲しいことも、忘れたくないことも。

すべて忘れて笑ってしまうのが、君たちにはきっとわからない。

昨日までの雨が嘘みたいだ。

それは僕を蔑んでいるんだろう?

台風が去って、青空は僕を『嫌い』にさせる。

※この物語はフィクションです

0 コメント

10月22日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

東京から来たという少女は僕にこう言った。

「私、波の音嫌いなのよね。いつになったら止んでくれるのかしら」

ワンピースを着た色白の彼女に会ったのはそれきり。

それでも僕は、その言葉が忘れられなくなってしまった。

海岸沿いにある僕の部屋で、僕は耳を塞がないと生きていけなくなってしまった。

波の音は止んでくれない。

その音を聞く度に僕は、見ず知らずの少女のことを思い出して、空想に耽ってしまう。

そうやって、嫌いなものが増えて、生きにくくなっていって、彼女の手が恋しくなってしまうのだ。

いつも僕の耳元で嫌いを語る彼女。

海岸沿いの街で波の音が嫌いな人は、見えない彼女と僕だけだった。

※この物語はフィクションです

0 コメント

10月21日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

軒先で、彼女が待っていたのは空だった。

通りかかった僕は傘を差し出す。

「お嬢さん、どちらまで?」

彼女は顔を強張らせる。

「いいよ、悪いから。君の時間を奪うことになるだろ」

「いいじゃないか、ちょっとくらい恩を売らせてよ」

笑いかけた僕は、ぎこちなく映っただろうか。

きっと誰もが自然にできることを、僕は気づくことさえ少ない。

そんな自分でも何か変わればと思うから。

降り注ぐ雨の中、誰かに雨傘を差していこう。

※この物語はフィクションです

0 コメント

10月20日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

久しぶりに読んだ本は、やっぱり陰鬱なミステリーだった。

本の内容よりも、まだ本を読んでいる事実の方が苦しかった。

眼鏡よりコンタクト。ジーンズよりスカート。読書よりミュージック。

少しずつ、新しい自分に慣れてきていたのは気のせいだったみたいだ。

もう一度本を読もうと思ったのは、やっぱりそれが自分じゃなかったから。

誰かのためじゃないし、誰のせいでもない。

それでも誰かのためだと思われてしまうのが、誰かのせいだと思われてしまうのが無性に苦しかった。

涙を隠すように布団に潜った。

夢の中に出てきた顔。

前のあなたの方が好きでした、なんてそんなこと言われたって。

※この物語はフィクションです

0 コメント

10月19日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

初めての東京で人混みに流されていたら、道に迷ってしまった。

誰かに道を聞くたびに、みんながみんな違うことを言う。

そのうちに、自分がどこに行くつもりだったのかさえわからなくなってしまった。

目の前に現れた雑貨店に入ったら、なんとなく好みの小箱があって、少し高い額を払って買った。

店員さんは、これも何かの巡り合わせですねと言う。

もし僕が、人混みに流されずに歩けたら。

もし僕が、人に道を聞かなくても歩けたら。

手元にはタイプライターのような書体で二千円と印字された小さな紙。

それを僕は小箱の中にしまった。

人混みに流されても、帰りの新幹線には乗り遅れないようにしようと思った。

※この物語はフィクションです

0 コメント

10月18日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

冬が来たのでタンスからマフラーを出してきた。

一年ぶりのマフラーは、首がチクチクしてかゆくなる。

去年のことなんて覚えていないから、きっと去年の冬もチクチクを感じて、そのうちに慣れていったんだろうと思う。

私はそうやって少しずつ季節を忘れて、感覚を忘れて、生きている。

外に出たら手袋も欲しくなって、でも手袋もきっとチクチクするんだろうと思うとなんだか憂鬱になった。

友達とのやりとりのためにはポケットに手を突っ込んではいられない。

冬の季節にも常にメッセージをやりとりするために、手袋は欠かせないのだ。

かじかむほどではなくても確実に冷えていく指先と、暖かくてもチクチクする首元の比較が、なんとなくまだ秋だった。

トントンという肩の刺激に振り向くと、同級生が「よっ」と言って微笑む。

マフラーに顔を埋めているその顔が新鮮に見えたので、冬を少し忘れるくらいがちょうど良いのだと思えた。

※この物語はフィクションです

0 コメント

10月17日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

アイスクリームが食べたいです。

けれど、なぜアイスクリームが食べたいのかを考え始めたら、あまり食べたくなくなりました。

本を読むのが好きです。

けれど、なぜ本を読むのが好きなのかを考え始めたら、好いている僕が馬鹿みたいでした。

生きている僕には、当然のように好きなものも嫌いなものもありました。

その一つ一つが突き詰めていけば、至極どうでも良いことに結びつけられてしまうのです。

梅干しを食べました。

嫌いだったのですが酸っぱいのを我慢すれば食べられないこともないことに気づきました。

多分、大好きだった読書とアイスクリームを取り上げられて、梅干しだけ与えられても僕は生きていけるのです。

久しぶりに会った君は、思ったより普通の声をしていました。

※この物語はフィクションです

0 コメント

10月16日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

買ってきたマウスが不良品だった。

強く押し込まないとクリックされたことにならないのだ。

当たり前のように交換してもらって、新しいマウスがうちに来た。

新しいマウスは不良品じゃないので当たり前のように快適だった。

それから一週間経たないくらいの頃に、私は恋人に振られた。

理由は、私から毎日のようにメールが来るのが鬱陶しいからという単純なものだった。

つらいなあと思ったことを吐き出す相手がもういないと思ったら、私が恋人をゴミ箱にしていたことに初めて気がついた。

私って、どうしてこうなってしまうんだろう。

メールフォルダの中身を選択して、削除をクリックした。

強く押し込まなくても新しいマウスは一瞬で消してくれた。

※この物語はフィクションです

0 コメント

10月13日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

暑いと眠れないのに、寒くて目が覚めてしまうようなことがよくある。

眠れないから自然と布団を剥いで寝て、ふと目が覚めたときには身体がガチガチに冷えている。

どうして眠れないのだろう。

私が眠ること、部屋の温度の変化、体力の低下、体質の問題。

暖房の前でうずくまりながら、冴えていく目が恨めしい。

温かいミルクを飲みながら、自分であることを考えてしまう。

暖かさがいつの間にか暑苦しさに変わってしまう自分。

それを剥いだらいつの間にか凍えるほどになっている自分。

心地よく眠れる場所が欲しかった。

人並みの幸せじゃなくても、普通に眠れる場所が欲しかった。

※この物語はフィクションです

0 コメント

10月12日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

五百円、落ちてた。

新宿の雑踏の中に落ちていたそれを、見つけられた僕は目敏いと言うべきなのだろうけど、とにかく落ちてた。

僕は拾わなかった。

理由はたくさんある。しゃがみ込めないほどの人ごみだったから。

それに何より僕は落ちているお金を自分のものにしてしまう行為が卑しいと思っていたからだ。

向かいから綺麗な女の人が歩いてきた。

紺色のカーディガンを羽織った純真そうな彼女は、僕の方を見て微笑んだ気がした。

見とれていた僕の目の前で彼女はふっと姿を消し、五百円を拾い上げて青春の一ページみたいに笑った。

彼女が行ってしまうまでの二秒間が、網膜を焼いて仕方なくなってしまった。

ケーキを買った。七百円くらい散財して、僕の自尊心を切り分けた。食べきれなくて捨てるところまでがその一日だった。

※この物語はフィクションです

0 コメント

10月7日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

蜃気楼、一晩だけ現れる楼閣。

僕たちは偶然にこの部屋で宿を共にしている。

騒がしい部屋の中で、時間はゆっくりと、しかし着実に流れ、誰もが逆らうことができずにいる。

なんとなく過ごしていた今日の日を、懐かしく思う日はきっと来る。

そんな風に感傷に浸っているのは、きっと僕だけなのだろうけど。

紙で手を切った。

じんわりと赤が皮膚の上を侵蝕する。

喧噪の中で確かに僕は傷を作っていた。

いつか治る傷は、けれど今すぐに治るわけではない。

今僕だけが感じている小さな痛み。生きていて必ず感じる小さな痛み。

※この物語はフィクションです

0 コメント

10月6日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

ねえ、金木犀を植えてくれよ。

どんなに小さい木でもいいから毎年咲くような金木犀を植えておくれよ。

夏はもう過ぎて寒くなってきた。

いよいよ上着を出そうってときにまだ金木犀の匂いを嗅いでないことに気づいたんだ。

何も今すぐ買ってほしいとは言わない。

今年に関してはもう諦めたし一年くらい金木犀のない秋が来てもいいと思う。

でもやっぱり寂しいんだ。

金木犀に気づかない僕だけが日々に追われて生きてるみたいじゃないか。

君との日々を無駄にしてるみたいじゃないか。

だからさ、金木犀を植えてくれよ。

※この物語はフィクションです

0 コメント

10月5日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

もしも宇宙人がいたとして、僕が初めて会う地球人だったら、僕はなんて自己紹介するのだろう。

友好な関係を結ぼうと、見栄を張るのだろうか。

理性的に物事を考えて、熱意を持って実行する、健康的な種族の一人だと嘘をつくのだろうか。

もしくは敵対感情を燃やして、強く見下すのだろうか。

自分の能力を悪用し、相手の住処を奪い取って、自分を強く見せようと雄叫びを上げるのだろうか。

それとも、相手を利用して、自分の嫌いな誰かを消し去ろうとするのかもしれない。

いろいろな人がいて、一概に否定する事なんてできない。

いろいろな自分がいて、それら全部を一概に否定してしまうような自分も、なんとなくそのまま居座っている。

そんなことも全部含めて分かって欲しいって言ったら、伝わるのかな。

改めて、初めまして。向こうの星から来ました。君を愛することを誓います。どうぞよろしく。

※この物語はフィクションです

0 コメント

10月4日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

とある昔の人は「月がきれいですね」と言った。

一方僕は一人寂しく駅へ向かっていたのだ。

月がきれいであることすら共有できる相手を持たずに腹を空かせて駅へ向かっていたのだった。

殺人的なかつおだしの香りに思わず僕は立ち止まる。

暖簾をくぐってメニューを見て、きつねそばを一杯頼んだ。

太めのそばを腹いっぱいになるまで入れて、油揚げを頬張り、一度は香りで僕を殺しかけたつゆを飲み干す。

満足して暖簾を出たところで黄色くて丸いものを見て、なんで月見そばにしなかったのだろうと少し思った。

月見そばを頼むイケメンだったら月がきれいですねなんて言えたんだろうか。

中秋の名月の日に息を吸うように月見そばを注文できれば、自分もあいつみたいになれたんだろうか。

電話が来た。とっさに月見そばが美味かったと嘘をついた。相手は田舎に住む母親だった。

※この物語はフィクションです

0 コメント

10月3日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

友人からもらった集合写真、先生からいただいた年賀状、買ったけど読まなかったオススメ本。

要らないものを袋に詰めていく。

今必要ないから、きっと将来になっても必要ない。つまり捨てられる。

嫌な記憶とか、息苦しくなるような僕の汚点とか、捨てる。

君の手に触れたときの感触とか、どうしようもない心残りとか、いつか忘れるんだから今捨てる。

こんなにも何でもない日でも、きっと新鮮な気持ちで受け止められるようになる。

誰かが考えなしに言った否定の声とか、意味のないわがままとか、たくさん袋に詰める。

野望とか、陰謀とか、自分のちっぽけな脳味噌に見合わない下手な思いは捨ててしまおう。

すべて捨てて何も残らなかった僕のことを、僕はきっと愛せない。

そうなったら僕さえも捨ててしまおう。

※この物語はフィクションです

0 コメント

10月2日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

初めて見た空の色は、澄み渡っていて綺麗だ。

ここまで来れば、もう誰も追ってこない。僕らを縛るものはもう何もない。

「どうして悲しいことばかり思いつくんだろうね」彼女は青い空に向かって言った。

「こんなに楽しいのに、今、すごく死にたいなって思ってる」僕の方を見て微笑む彼女は、さっきまでとまるで変わらない。

僕もそう思ったから、なるべく爽やかに笑いながら「そうだね」と返した。「僕も同じ気持ちだ」

「私たち、これから生きててこれ以上楽しいことあるのかなあ」彼女はえへへと笑って、「杞憂かな」と言った。

「少なくとも、今までよりはずっと楽しいと思う」僕は曖昧に返したけど、それが少しずるい気がしてしまう。

「いや、楽しくするよ。楽しくしないと」逃げる必要はもうないのに、僕は彼女の手を引く。

少しでも、ここじゃない場所を目指そう。

「これまでの元を取るんだよ」あの街ではできない顔を作って生きていこう。

※この物語はフィクションです

0 コメント

10月1日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

「武器を取れ、誰かを愛する者たちよ」

街宣車のアジテーションは今日も狂ったようにうるさい。

僕は久しぶりに散髪に来ていた。

僕の担当だったおじさんはもういない。

徴兵されてしまったので生きているのかどうかすらわからない。

おじさんの奥さんは髪を切るのがあまりうまくない。

短すぎる前髪を見て、奥さんは「ごめんねえ」と言って寂しげに笑った。

広くなったおでこをなでると、藍色の気持ちというものが少しだけ分かった気がした。

一滴でも朱を落とせないか。

ぎこちない笑顔ばかり噎せ返るほど溢れる藍色の街に生きる僕だった。

※この物語はフィクションです

0 コメント

9月30日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

初めは泣いていた。

自転車に乗ることは、僕にとって鬱憤を晴らすための道具でしかなかった。

涙の跡に当たる風が心地よかった。

自転車に乗ることが増えて、通学も自転車にして、自転車に乗る時間が生きがいになった。

夢中で濃く僕の頬を切る風は、僕のための風だった。

自転車友達ができて、旅に出るようになって、笑いながら自転車に乗っている時間が増えた。

それでも思う。

あの時の涙がなければ自転車には乗ってなかった。

だから僕はあの時泣いてよかった。

そんな内容のインタビュー記事が目に入った。

破り捨ててしまいたかった。

※この物語はフィクションです

0 コメント

9月29日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

悲しいことが一つ、嬉しいことが一つ。

一日を構成した一つ一つ、今日とともに浴槽に沈めて。

おだやかな深夜0時、短い命の声だけが響く水面の上。

僕は水面をつついて波紋を見る。

向こうに流れるように見える水は、ほんとうはその場を上下しているだけだという。

遠くへ行け、遠くへ行け。

僕の手が触れるものは形を持たずその場を移ろう。

昨日という日もこうして更けていったのだ。

それでもどうか、できるだけ遠くへ。

手のひら一杯の夜を水槽に沈める。

※この物語はフィクションです

0 コメント

9月28日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

聞いておきたいことがあります。

こんなふうに僕があなたに質問することは初めてだと思います。

僕はあなたに話を聞いてもらうばかりで、あなたのことを僕はあまり知りません。

ずっと自分のことばかりであなたのことなんて気にしたこともありませんでした。

きっと今もあまり変わらない、自分ばかりを眺めている僕ですが、ようやく誰かに興味を持ったのです。

誰かのことを知りたいという気持ちが芽生えたのです。

なんて、これも自分のためかもしれませんが、それでも僕は信じてみたくなりました。

自分が誰かを『想う』ことがあるのだと、思い込みたくなったのです。

教えてください。

あなたは誰かを想うことがあるのですか?

※この物語はフィクションです

0 コメント

9月27日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

ガラス瓶の中の球体を落として、ジュワジュワした香りを鼻に運ぶ。

「このビー玉、取ろうとしたことある?」彼女の長い髪は少し冷たい風に揺れる。

「知ってるか、このガラス玉はビー玉じゃなくてエー玉って言うんだ」

「知ってるよ、そんなこと」彼女は目を細める。「子供みたいね」

海岸線はゆっくりと冬に近づいている。

ミサイルがもたらした夏の終わりが、僕らもこの星ももう長くはないことを示している。

「僕も呼ばれたから、行かないといけなくなった

言葉を放ったあとの口がもどかしくて炭酸を呷る。

「ラムネ、季節外れになっちゃったね」

僕らはいつまでも、夏に溺れていたかった。

※この物語はフィクションです

0 コメント

9月26日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

日常は、妙に早足で僕を運ぶ。

桜並木の下を抜けて、蝉時雨の河川敷を抜けて、気づいたらここにいた。

百点満点を毎日取れていたわけではない。

それでも無駄じゃない日々がそこにあって、少しだけ成長できた自分がいるのかもしれない。

きっとこの後も日常は、息つく暇もなく僕を運ぶ。

その日常の一端を、書き残して歩いて行く。

いつか止まってしまったときに、思い出してこれを読み返すのだろうか。

それが明日来るとも限らない、お先真っ暗の世界を歩んでいる。

今日、久しぶりに見た月は綺麗だった。

9月ももう終わるのか。するりと抜けていく風が少し冷たく思えるのだ。

※この物語はフィクションです

0 コメント

9月25日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

その柵の向こうは、別世界だった。

彼女は言う。「ねえ、向こうに言ってみようよ」

確か、ここには家があったはずだ。家があって、森があって、その先には、確か……。

彼女は言う。「何してるの? おいてくよー」

ああ、僕はこの先には進めないみたいなんだ。

あの頃乗り越えた柵は、今ではとても高くなってしまって、脚を掛ける継ぎ目もない。

家もない。森もない。草も生えない平らな砂の上には、幾つかの重機。

それに比べてあの頃はなかった、広い空だけがあった。

十年前、ランドセルを背負った彼女と毎日通った場所。

アクリル板の向こうは、別世界だった。

※この物語はフィクションです

0 コメント

9月23日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

オリオン座流星群の話をニュースで知った。

僕は空を流れる無数の星々を思った。

天文学が好きな方ではない。むしろ小難しい話や細かな知識は頭をすり抜けていく。

それでも綺麗な景色は脳裏に焼き付くのだから、星を見るのは好きだった。

予定表に書き入れてから、誰かに知らせようかと思った。

いろいろな顔が思い浮かんで、夜空の下の顔出しパネルにその顔をはめ込んで、違うなあと独りごちた。

どうしても、誰も笑ってくれるような気がしなかった。

そうすると、それまでとても美しく頭の中で流れていた星が、急に陳腐に見えてくる。

どうしてなんだろう。頭の中にいる誰かが僕の綺麗なものを全部愚かしく貶めている気がしてしまう。

誰でも良いから僕が楽しいって言ったら楽しいって応えてよ。ねえ。

※この物語はフィクションです

0 コメント

9月22日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

フォンダンショコラって食べたことありますか?

中からドロドロしたチョコが出てくるんですよ。

私その見た目が結構苦手で、血を想像しちゃうんですよね。

ドロッと出てくる感じが頭蓋を割ってるみたいじゃないですか。

それをかわいいって言ってのける皆さんがちょっと信じられません。

私の方が間違ってるんでしょうね。

チョコが出てくるところ、見てみたいですか?

まあ夏に食べるものじゃないですし、秋のこんなに晴れた日に食べるものでもないです。

冬になったら食べてみてください。

味はおいしいので多分気に入ると思います。

※この物語はフィクションです

0 コメント

9月21日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

遠くから見ているあの人に、好きな子ができてしまったら。

そしたらきっと私は死んでしまうなあと思うんだ。

それだけじゃない。あの人が何をしているところを想像しても、死んでしまいそうになるのだ。

けれど私は遠くから見ているだけなのです。

真夏に雪が降るよりあり得ない妄想で、真冬に雪が降る程度の想像を打ち消そうとしても無理なのです。

あの人がいつもああいう人だからいけないんだ。

私にもチャンスがあるかもしれないみたいな顔をしているのがいけない。

だから、はやく死んでしまうようなことをして、私を殺して欲しいんだ。

私の前で知らない人とキスでもして、息の根を止めて欲しいんだ。

それでもきっと私は生きてしまうから、そのガラスの期待を撃ち抜いて。

※この物語はフィクションです

0 コメント

9月20日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

手帳をなくした。

それでの日々が泡になって消えていったように感じた。

予定も、日記も、メモも、全部がどこか遠くに行ってしまったのだ。

手帳は綺麗にまとめるのが好きな方で、そのためだけに色ペンを買っていた。

自分だけしか見ないはずのものは、とうとう誰も見ないものになってしまった。

けれど、炭酸の泡のように消えていく様子が、むしろ綺麗に感じるのだ。

儚い自分の記憶の中から、すり抜けていく予定が愛おしく感じる。

確か今週先輩との食事の予定があったはずだ。

何日だか分からないその予定を、忘れてしまったことにした。

その方が、秋めく空を感じられるような気がした。

※この物語はフィクションです

0 コメント

9月19日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

日が少しずつ長くなってきましたね。

秋めいてきた季節が、時の流れを感じさせます。

先輩、夜は寝られてますか?

誰かに優しくしたければまずは自分の身体に優しくしないといけませんよ。

先輩、食事は好き嫌いなく食べてますか?

人の振り見て我が振りって言ってたのは先輩だったじゃないですか。

最期に夢枕に立って話す相手が、あなたになるなんて思ってもみませんでした。

でも初めて会ったときから先輩は私の先輩なんです。

最期になっても私の秘密は言えないままです。

言ったらあなたは傷ついてしまうから。

※この物語はフィクションです

0 コメント

9月17日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

夏を思い出していたのです。

あのギラギラに光る太陽とか、目が痛くなるくらい青い空とか、暑さの湧き出したような白い雲とか。

思い出していたのですよ。あなたはもう忘れてしまったでしょうけど。

いろいろあったのですよ。あなたの知らないことが夏にはいろいろありました。

夏の残骸はバラバラになって、もう泣き喚くこともないのでしょう。今は秋が寂しく泣いています。

あなたはきっと過ぎてしまった夏とか、いなくなってしまった彼の話とか、もう考えたくないって思っていると思うのですが。

あなたが知らないところで、私は彼と密かに話をしていたのです。

その記憶も、もうバラバラになって運ばれていく途中なので何を話したって言っても嘘みたいに感じてしまいますね。

それでも私が彼と、確かに話したことだけは救いになるんじゃないかと思ったんですよ。

あの夏には、あなたが思っていた以上に幸せなこともあったことを、私は忘れちゃいけないんだと思いました。

※この物語はフィクションです

0 コメント

9月16日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

雨が降っていたので雨の歌を口ずさみながら帰りました。

信号待ちの時にお母さんに連れられたカッパの女の子が、「青いお月様、見たかったなあ」と言っていました。

私はついぞ青いお月様など見たことがありませんでしたので、見てみたいものだと思いながら信号を待っていました。

ヘッドライトに照らされる雨粒は青と言うよりは白だし、球というよりは線なのでした。

信号を渡ったところで女の子たちは私とは逆の方向に歩いて行きます。

その頃にはもう女の子は、水たまりをべしゃべしゃやることに夢中になっていましたから月のことなど忘れたのでしょう。

一方私もさっき口ずさんでいた歌の続きを歌おうとしても思い出せなくて、義務感を持って水たまりに飛び込みました。

事務的にべしゃべしゃしました。

もう十分べしゃべしゃして義理も果たせたかなと思ったところで振り向くと、カッパのシルエットはもうありません。

月が青かったら空に溶けてしまうから、子供の想像力は分からないものだと思いながら蛍光灯の反射を踏みつけました。

※この物語はフィクションです

0 コメント

9月15日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

溶け出した思いが徐々に畳を侵蝕していった。

「なんでもないよ」受話器に向かって口にした言葉は、いつもと同じ。震えてない。

おやすみ、と言って電話を切る。思いは床に流れ出てしまって、身体を動かす度にピチャピチャと音を立てる。

それでもまだ足りないらしい。

明日の朝には窓から流れ出て、私の思いで街を浸してしまうのかしら。

そしたらきっとあの人も気づくはずだ。

私の思いがこんなにも溢れていることに、気づくはずなのだ。

本当は無理なこと、分かっているけれど。

現実ではできないことだと分かっているのだけれど。

ファンタジーが答えを教えてくれたら良いなって思いながら。

※この物語はフィクションです

0 コメント

9月14日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

夏は終わったなんて、信じられないでいる九月の日。

久しぶりに会った彼女は動きやすそうなジーンズ姿で、髪はバッサリ切られていた。

「そっちは頑張ってるって聞くよ。偉いね」あの頃はしない褒め方が、気持ち悪い。

もう社会人なのか。後輩もできる頃合いだ。

大人ぶっていたあの頃の俺と同じ年。現実は何事もなかったように現実を突きつける。

不自然だったあの頃とは違う不自然さ。みかんの中に混じっていたりんごから、みかんの味がする感覚。

やめろ。俺を肯定しないでくれ。

「お前はもう、諦めたのか?」俺の喉から出た声は、震えていたと思う。

「自分に甘いのは変わらないね」見慣れないベリーショートの彼女がはにかむ。

その瞬間だけは薬指の金属を感じないあの夏だった。

※この物語はフィクションです

0 コメント

9月13日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

あなたへの思いは心臓に残ったまま。

そんな自分を抱えて街を歩く。

すれ違う人々それぞれの心臓に、それぞれの思いが籠もっているらしい。

雑踏の中にいると、私の中のあなたさえ埋もれてしまいそうになる。

明かりの照らす街の中は、誰かを感じない、一人の世界。

凍ったような街角は、私一人だけ取り残されてしまったみたいだ。

あなたに会えるはずがなくて、誰にも会えるはずがなくて、少し落ち着く。

きっと、あなたのことは嫌いだったんだ。

会いたくないのに思い出していたいから。

今日も私は夜を散歩する。

※この物語はフィクションです

0 コメント

9月12日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

広い世界の中では、成功があって、失敗があって。

できることとできないことがあって、自分のできることは少なくて。

争いはいつも遠くで起きて、被害を受けるのは自分ではなくて。

それでも無数にあるはずの世界の中心はここにしかなくて。

ハロー、自分。

僕は君を精一杯恨むよ。

君が世界の中心であることを僕は心の底から恨むよ。

僕が動かせるのが君であることが、僕は憎らしくてもどかしくて仕方ないんだ。

世界の中心のちっぽけな自分。

その自分を今、抱きしめているのは自分だけ。

※この物語はフィクションです

0 コメント

9月11日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

僕の親知らずは横向きに生えている。

横向きに生えた親知らずはいつか抜かなければならない。

それだけのことで人生が億劫になってしまう。

旅に出ようとも、家を買おうとも、宝くじが当たろうとも、恋人ができようとも。

僕の口の奥深くには横に生えた親知らずがいて、今か今かと痛みを与える時を待っているのだ。

人生はつらく苦しいもので、親知らずが横に生えているかどうかなんて、その人のあずかり知らぬところで決まってしまう。

どんな幸せなことがあっても、抜歯の日が来ると分かっていると死にたくなる。

どんな運命かは分からないけれど、僕の親知らずは横向きに生えてしまった。

痛いのは嫌いなのに、全部の親知らずが横から生えてきやがる。

友人ができる度に、お願いだから君だけは横向きに生えないでくれと祈っている。

※この物語はフィクションです

0 コメント

9月10日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

ここだけの話。あなたには教えてあげる。

この町は一時間前にはなかったのよ。

あなたの乗った電車が駅に着いたときにこの町は作られたの。

だって、私が待ち合わせ場所に着いたときにはまだなかったもの。

あのオブジェだって、あそこのビルだって、今並んでる喫茶店のベンチだってなかった。

あなたが来たからできたのよ。

あなたと一緒にいられるから、私にとってこの町は在るの。意味を持つの。

『なーんだ』って、嘘だと思ってるのかしら。その程度のことって馬鹿にしてるの?

全部本当のことよ。

この町はあなたの魔法が作ったってこと、その意味なんて私に言わせないでね。

※この物語はフィクションです

0 コメント

9月9日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

深夜三時はとうに過ぎて、僕らは深海の中を泳いでいる。

永遠にも似た残り三時間は僕らの脳とは噛み合わせが悪くて胃もたれしそうだ。

「明日は来ないよ」口から放った言葉は水面に出ることはない。

泡になって消えてしまうのだ。

僕らの言葉が意味を持つまでの残り三時間。

この町と一緒に、僕らも溶けてしまうこともできたのだろう。

それができない僕らのほんの少しの抵抗。

「明日は来ないよ」放つ言葉が町に呪いをかける。

甘ったるくてしつこくて、それでも甘美な残り三時間を呪いは永遠に変えてしまう。

僕たちだけの深海を、今はゆっくり味わうのだ。

※この物語はフィクションです

0 コメント

9月8日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

楽しかった日々に戻れたとして、再び訪れた楽しい日々を、僕はもう一度楽しめるのか。

「楽しかったよ」彼女は言った。街灯に集まった蛾を僕は見ていた。

「また今度」彼女は言った。僕が彼女を見たときには彼女はもう向こうを向いていた。

楽しかった日々には戻れないけれど、そんなこと分かっているのだけれど。

考えてしまわざるを得ないほど、色褪せたあの日々は綺麗に映る。

「心の底から楽しかった日々って本当にあった?」彼女の声でそれは再生される。

「いつも何かを押し込めて楽しかったことにして、それを思い出して悲しんでるんじゃないの?」

そうなのかもしれない。彼女の僕を呼ぶ声だけ、なぜか再生できなくて少し悲しくなる。

楽しかった日々に戻れたとして、色褪せたその色は目に映らない。

鮮やかな原色は苦しくて、きっと泣いてしまう。

※この物語はフィクションです

0 コメント

9月6日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

「口内炎が治らないので優しくしてほしい」「は?」家に帰ってきた俺に対する第一声はおかえりではなかった。

「口内炎が! 治らんのじゃ!」「やめろ、じたばたするな。響くぞ」部屋着のまま地団駄を踏む彼女。

「虫歯じゃないんだから響かにゃッツ!! 痛ったー……」「言わんこっちゃない」彼女は頬を押さえてうずくまっている。

「とりあえず飯は」「くくってらいれふ」「だろうと思った」冷蔵庫を開けて中身を確認した。

「じゃあおじやでも作るか」「よろひくおねあいひまふ」「そろそろ普通に話してくれ」

スーツの上にエプロンを着けて冷蔵庫の中から野菜を取り出す。料理なんて久しぶりだ。

「飯より先にお願い事がありまふ」「なんだよ、どうした」うつむいた彼女はキッチンの横でもじもじしている。

「今日だけでいいので優しくしてくらはい」耳まで染まった彼女が、急に初々しく見えて恥ずかしくなってくる。

「ん」頭をなでてやっていたらなんだか俺までおかしくなりそうだったので、思わずベチンとやってしまった。

それ以来、この家には口内炎がある人に優しくしようと努力するというルールができた。

※この物語はフィクションです

0 コメント

9月5日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

老いってつらいですよね。

年齢って足枷だと思うんですよ。記憶で作った足枷。

生きてると少しずつ溜まっていって、どんどん動けなくなってくんですよ。

記憶でできてるので、忘れちゃえばどうってことないんです。そんなことわかってるんです。

わかってるのになあ、なんでこの頭はどうでもいいことまで覚えちゃうのかなあ。

全部糧にして生きていけるほど強くないよ私。

怒られたら逆恨みするし、自分に非があったらぐちぐち悩むんですよ。

顔を見る度に思い出すし、思い出す度につらくなってて、馬鹿みたいだ。

何が違うんだろうなあ、記憶を足枷に変えてしまうものって何だろう。

こんなこと言ってても何の意味もないのになあ。

※この物語はフィクションです

0 コメント

9月4日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

花びらが何枚あるのか、みんなひと目でわかるものなのだと思ってた。

2で割れる枚数の花は、わざと摘まれるのだとばかり思ってた。

…………スキ、キライ、スキ、キライ。

「また『キライ』だ」そう言う彼女はむつかしい顔をして一枚だけ花びらの残った軸を投げた。

ほら、そんな彼氏と馬が合うわけがない。

最初からわかってたじゃない。わざとでしょ。

おくびにも出さないで、私は咲いていた花を一輪むしる。

スキ、キライ、スキ、キライ……キライ、スキ。

隠れていた。切り取った花びらの下に小さな花びらが、キライの輪郭を残している。

「誰と誰を占ったの?」私は彼女を見ずにもう一輪花をむしり取っていた。

※この物語はフィクションです

0 コメント

9月3日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

はじめましての珈琲屋で、はじめましての珈琲を飲んだ。

好きな小説のヒロインの名前と、たまたま同じ名前の珈琲。

彼女の引っ込み思案を抽出したような、仄かな甘みと少し強い苦み。

「あいつにそっくりでしょう? 見つけたときびっくりしました」主人公の話す声が聞こえる気がした。

まったく、君たちはひどい。日常生活の中まで侵蝕してきやがる。

きっと二人の世界は、本の中では収まりきらなかったのだろう。

その小説の主人公らしくペラペラとしゃべる彼に返事をせず、僕は珈琲をすする。

僕は彼に嫉妬していた。彼女が目の前にいたら多分、僕だって恋をしていた。

僕だって、彼女のことが好きだった。

その豆を買って帰る僕は恥ずかしいくらい未練がましくて、彼のようにはなれないと心から思うのだ。

※この物語はフィクションです

0 コメント

9月2日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

「もしも、明日人類が滅びたらさ」電話越しにわたしは突拍子もないことを。

「なにそれ、例え話?」電話の声は少し歪んでいる。「うん」わたしは目をこする。「例え話だよ」

「もしも、明日人類が滅びたら、わたしがあなたと最後に会ったのは去年のことになるんだね」

「なんだよそれ」電話の声は少し歪んでいる。「週一で電話してるじゃん」

その声は、まるであの人じゃないかのように、歪んでいる。

「ダブリン、楽しい?」わたしは聞くけど返事は決まっている。「ああ、楽しいよ」

その定型句が分かることは彼の条件ではないはずなのだ。

彼がそこにいることを疑っているわけじゃない。疑うべきは彼の声を忘れてしまうかもしれないわたしの方。

「わたしね、昨日学校休んだんだ」それは本当のことだった。本当であることが情けなかった。

「おやすみ」声を待たずに切った電話。わたしからなくなった三キロ分は、あなたからの愛だったのかしら。

※この物語はフィクションです

0 コメント

9月1日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

「近所に有名なゴミ屋敷あるじゃん」新学期の初日、早く着きすぎた俺にあいつはこっそり言った。

今まであまり話したことはない。サッカーでゴールを決めた時のあいつの顔くらいしか印象にない俺は少し動揺する。

「聞いてる?」俺は気持ち悪くなって首を上下に小刻みに振った。

「あれ、俺の親戚の家なんだ」「えっ」すごく小さな声が自分の口から出たことに驚く。

この間、ガキ大将が石を投げていたあのゴミ屋敷が、親戚の家?

「お前も一緒に石投げてたじゃん」あの時お前も確か一緒にいた。確認のように聞く。

「投げてた」あいつはすごく自然だ。眩暈がするほど不自然な平常感。

「だって、親戚と友達とどっちが大事だよ」

バツンという音がして、チャイムが鳴った。そうか、まだ入っちゃいけない時間だったんだ。

入ってきた友達としゃべり出したあいつが、なんでそんな話をしたのかなんて分からずじまいで良い気がした。

※この物語はフィクションです

0 コメント

8月31日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

「夏、終わるね」小さく呟いた声は、誰に届くこともなかった。

年だけは大人になったのに、いつまでもこどものまま。

幼い自分が許せないあたり、思春期を引きずっている。

アイスクリームが好き。カレーライスが好き。ピーマンが苦手。ブラックコーヒーは頑張る。

今宿題を出されたとしても、多分最終日までやらないだろう。

分かっているのに直らない自意識過剰は、大人の世界では通用しない。

淡い青春の心持ちは、淡いから良かったのだと、今になって分かる。

「夏、終わるね」この声に応えてくれる相手は、今や誰もいなくなってしまった。

明日になったら、季節が変わったら、年を取ったら、大事なことも忘れてしまう。

私だけ変われないまま。

※この物語はフィクションです

0 コメント

8月30日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

クーラーの利いたリビングでは熱戦が繰り広げられていた。

「っしゃ! 殺した!」諸手を挙げた私。「うわー、ひでー」コントローラーを置いた彼。

「ざまあ」ベロを出した私。「それが好きな男にする態度かよ……」傍らの缶ビールを空ける彼。

お互いスーツを着崩したまま、格闘ゲームに熱中していた。

冷蔵庫にペットボトルを取りに行く彼の後ろ姿が、ひどく優しく思える。

三十分前とは違う理由で泣きそうになる私を見ずに、彼は何もなかったみたいに尋ねる。

「明日、会社行けそうか? それとも明日もゲームするか?」返事の代わりに曖昧な顔で彼を見る私。

「俺はお前の分まで稼いでくるぜ」ペットボトルを片手に腕まくりをする彼は、照明の具合だろうか、眩しく見えた。

「……あと一回勝ったら行く」クッションを抱き直す私。「おっ、じゃあ本気出すわ」指を鳴らす彼。

日付はもう少しで、変わろうとしていた。

※この物語はフィクションです

0 コメント

8月29日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

補習なのは僕だけだった。

体育教師は屋根のあるところで寝てしまっていた。

僕はプールに入りたくなくて、足だけプールにつけて遠くを眺めている。

いつものプールの時間とは違う、穏やかな時間が流れていた。

飛行船がゆっくりと東の方に飛んでいくから、なんとなく手を振った。

プールサイドに迷い込んだ猫が、寄ってきたので首をくすぐってやった。

夏の一日、一人きりの夏の一日がこうやって過ぎていく。

ドラマなんて要らないよなあ。

帰ったらきっともうお父さんはいないんだろうけど、そんなことと思えてしまう。

ドラマのない、この時間を引き延ばした映画をずっと見ている人生もよかったと思うんだけど。

※この物語はフィクションです

0 コメント

8月27日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

小さな幸せを積み上げて生きていくことができたら楽なのになあ。

思い出すことは小さな不幸せばかりで、積み上がったものはマイナスに大きく張り出していた。

なんだかうまくいかないのだ。うまくいかないことを他人のせいにするのもちょっと憚られる。

最近、私が得意だと思ってたものが何にもできなくなっちゃう気がするんだ。

なっちゃう、じゃないな。なっちゃった、だな。

小さな不幸せばっかり積み上げて、でも私すごくがんばってはいる気がするんだ。

がんばってないかな。成果は出てないけど、苦しいのに耐えるのだけはがんばってるよ。

逃げてないよ。戦ってるよ。

偉いね。私は偉いよ。成果が出てたらもっと偉い。

とりあえず飯食え、な。飯がうまかったことも忘れないようにするんだぞ。

※この物語はフィクションです

0 コメント

8月26日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

「いつか消えてしまうものは、ないのと同じ」

君が放った言葉は、僕の中に重く残っていた。

十年、二十年、三十年経って、花火大会なんてとうの昔で、君が僕を覚えていなくて。

赤く照らされた君の横顔が、雨上がりの蒸された山の匂いが、膝に零した冷たいかき氷が。

そこにあった僕の感情が。

「そんなの、いつか消えてしまうじゃない」

わかってる。分かっている。証明なんてできない。なかったことにするのは簡単だ。

けれど僕は何も言えないのだ。

花火が打ち上がる。

何も残らない空を見上げて、君が微笑んで海に飛び込んで、あれから五十年経っても僕は君を覚えていて。

※この物語はフィクションです

0 コメント

8月25日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

「愚かだ」彼女は言った。唇は先ほど含んだ水で濡れていて、それを器用に動かして話す様子は虫を思わせる。

虫は思い出したかのように僕を見て、愛想笑いとともに言う。「君に向かって言っているわけじゃない」

「分かってますよ。そんなの」僕は彼女の纏う安っぽい赤色とそこから大々的に吐き出された素足を見る。

警戒色だ。彼女は街行く人にアピールしている。自分が『食べられたくない』ことをアピールしている。

あくまで仕事であることをアピールしている。

僕は、分かっていた。愚かなのは僕だ。彼女自身の選択を、見ていられなかった部外者なだけ。

警戒色の裏の彼女を信じているとか、そんな手垢まみれの感情で彼女の選択を嘲った愚か者。

「行こう。こんなところにいても仕方が無い」彼女は僕の手を取る。僕は従う。

彼女は何を思うのだろう。仕事の邪魔をした僕を、彼女は否定しない。ただ複眼のような定まらない目で見るだけだ。

お金を払おうと僕は思った。自分の価値観から逃れられないのなら、その上で散々馬鹿にしてやろうと思った。

※この物語はフィクションです

0 コメント

8月24日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

灯台の前に座って、夕日を眺める少女たちがいた。

その誰も喋らない様子を、遠くの方から僕は見た。

一人が傍らにあったラムネを呷る。

果てしないほどの時間が、こことは違うどこかにある気がする。

夕日は沈もうとしている。

少女たちもいつか大人になる。

けれど永遠を願う彼女たちなら、本当の永遠に行けるのかもしれないと、至極真面目に考えてしまうほど。

それくらい彼女たちの纏う光は煌めいていた。

放り投げられたラムネの瓶が、光を反射しながら海に落ちていく。

その光が海に落ちてしまうなら、死んでしまっても良いと思った。

※この物語はフィクションです

0 コメント

8月23日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

田んぼに落ちました。

落ちそうになった私の腕をつかんでくれたあの子も引きづられて一緒に落ちました。

制服がドロドロになりました。

あの子、眼鏡に泥が撥ねててすごい顔をしていたので、眼鏡のレンズに泥を塗ってやりました。

前が見えないあの子は手探りで私を探すのですが、その様子が激しく滑稽で、吹き出したら泥を投げつけられました。

あの子にバレないように私が後ろに回ろうとすると、足下からヌッチャヌッチャという音が響くのが馬鹿みたいでした。

けれどその音を頼りにレスリングの選手のような臨戦態勢を取るあの子も面白すぎて、二人で笑っていたのでした。

夏期講習の帰り道、私は高三の夏というとあの日を思い出します。

受験の中で消え去ってしまういくつもの日々の中で、その日だけは妙に輝いているように見えるのです。

女優になったあの子がラジオの中で言っている話を聞きながら、いつの間にか私の頬を涙が伝っていたのでした。

※この物語はフィクションです

0 コメント

8月22日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

踏み台。僕は踏み台。

長い間続く誰かの人生の踏み台として生きている。

踏み台であることは悲しくない。踏み台であることはつらくない。言い訳じゃなくそう思う。

僕を踏み台にして、誰かが羽ばたくのが実のところ本当に嬉しいのだ。

けれど、誰も理解してくれないことはすごくつらい。

理解者ぶった他人が、踏み台の僕を見て可哀想にと優しく声を掛けるのは心に来る。

僕の生き様を誰もが簡単に否定する。

視界の狭い人のほうが可哀想だと思うのだ。

僕は今日も日陰にいる。

太陽を浴びる木々に水をやりながら。

※この物語はフィクションです

0 コメント

8月21日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

人に合わせて生きている自分を、少しだけ恥ずかしく思った。

あなたの嫌いなものを、私が嫌いになる必要は無い。

私の嫌いなものを、あなたが好んでいるように。

好きにすれば良い。

それでもあなたが私を好いていることを、疑ってはいないじゃない。

ジャズは気取っているから嫌い、なんてあなたが言うから、聞けなくなってしまった。

そんなこと言ったら怒るんだろうな。

私を思って、優しさで叱るんだろうな。

あなたの華奢な手のひらが好きになった。

そんな自分を恥じていた。

※この物語はフィクションです

0 コメント

8月20日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

「先輩、空振ってますね」

バッティングセンターに逃げ込んだ俺を、なぜかあいつは見つけてそう言った。

「うっせ。じゃあお前やってっ、っみろよ」バットは悲しく空を切る。

「嫌ですよ。打てるわけないじゃないですか、こんな球」俺の三振を見ながら言う。「速すぎます」

「人のこと言えないじゃんか」俺は追加のコインを投入して、もう一度構える。

「言えますよ」あいつは得意げだ。「先輩に対してなら言えます」

「なんでだ、よっ」かすりもしない。それでもバットを構えるのは、何のためか。

「だって、打とうとしてるじゃないですか、ホームラン」

カーンという音が鳴って、俺のフルスイングにボールが当たったことがようやく分かる。

飛んでいった球よりも、あいつのニヒヒという笑い声よりも、痺れる両手の方が心臓の鼓動に近く感じた。

※この物語はフィクションです

0 コメント

8月19日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

圧縮空気、という単語がふと思い浮かんだ。

空気を圧縮する。それをスプレー缶に入れて売るんだ。売れるんだ。

今も吸い込んでいるこの空気も、力を加えれば売れるんだ。

一昨日あたり、中学時代の友人を見かけた。

声はかけなかったけど、きっと今頃社会人なのだろう、スーツを着ていた。

あの時吸い込んでいた空気が、圧縮されたとして、僕の中学時代、吸い込んでいた空気もきっと、売れる。

あの友人、そんなに良いやつだとは思っていなかったけど、正義感の強い友人。

彼を圧縮して販売した社会。圧縮し損ねて、まだ誰かに吸われている普通の僕。

彼を見かけたとき、青菜を買いに行くただの大学生の振りをした僕のことを、きっと彼も見た。

夏の風、売り飛ばされる夏の風、吹け、吹け、なぎ倒してしまえ。

※この物語はフィクションです

0 コメント

8月17日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

何もない日だった。

遅く起きて、食事をして、少しだけ本を読んで、仕事をして、買い物に行った。

少しだけ彼女とメールで話して、ふと、夢の中にいるみたいだと思った。

もう彼女はいないとか、町の外には海が広がってるとか、眼鏡を外したら荒野に立っていたとか。

そういうことを言われても、おかしくないほど静かな日だった。

疲れたなあって言って、生きるのってなんでこうもつらいんだろうって言って、俺って間違ってるなあって言った。

独り言だから、罪もない。

点滴が落ちる音で目を覚ましたい。

心電図の鳴り響く音が聞こえる気がして仕方がない。

俺はもう、誰かの心音に飢える生き方に耐えられなかった。

※この物語はフィクションです

0 コメント

8月16日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

真夏の遊園地、クマの着ぐるみが日向にぽつりと立っている。

名前もない着ぐるみ。風船を持った着ぐるみは、おどけて私にさえ風船を差し出す。

夏休みなのに高校の制服を着て、ただ一人でふらふらと歩く私が哀れに見えたのだろうか。

私は誰かになりたかった。

誰にも違和感を感じられない、確固とした『誰か』に。

それはきっと、こういう形なのかもしれない。

周囲の視線を遮るかぶり物、その向こうにいる誰かの瞳が見えた。

私みたいだな、と思ってふと、私は自分の理想を恥じた。

「私はあなたにはなれないわ。ごめんなさい」

着ぐるみの手から離れた風船は、空の方へと舞い上がっていった。

※この物語はフィクションです

0 コメント

8月15日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

「手紙を渡されたんです」彼女は浅い呼吸のまま言う。「あなたに渡してって」

「私に?」驚いた声を上げる私。「何のために?」

演技なのだ。その手紙の差出人だけでなく、内容も、出した理由も、私は全て知っていた。

「わからないけど、受け取ってください」彼女の目は潤んでいる。「彼の頼みなんです」

そうよ。彼の頼みに決まってる。彼が騙された善良な子羊になって、私が悪い魔女になるための儀式。

頼まれなきゃやらないわよ、こんなこと。それこそ彼以外なら言いふらしてた。

ひったくった手紙に、素早く私はライターで火をつける。

彼女は泣き出しそうな顔をして、その場にうずくまる。

それでいいの。あなたとの日々は最後までドラマティックだったわ。

さよなら、愛した人。

※この物語はフィクションです

0 コメント

8月14日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

炊飯器、捨てたくないなあ。

一合炊きなの。一人暮らしするときに初めて買った炊飯器。

送り出すときに私の親が唯一買ってくれた家電なんだけど、捨てたくない。

いや、君と早々に別れたときのためとかじゃないよ。思い出が詰まってるんだ。

「どんなに考え方が違ってても、黙って死なれちゃ寝覚めが悪い」ってこれだけ買ってくれたんだ。

だから、ご飯だけは必ず炊くようにしてるんだ。

男手一つで育ててくれたことになんて、全く感謝しちゃいないんだけどさ。

あの人ひどい人だしね。男女構わずとりあえず殴るしね。私にだけ甘いなんてことはなかった。

でも出て行くときに反対はしなかったんだ。ぐちぐち文句は言ったけど、自分と合わないことは分かってたんだと思う。

お父さんに君を紹介したら絶対怒るけど、炊飯器なら怒ることも無かろうって思うから。

※この物語はフィクションです

0 コメント

8月13日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

「誰も、戻ってこなかったよ」

墓石を清めながら俺は言う。

お盆になったというのに、東京に行った同級生たちはみな、一人として島に戻っては来なかった。

「無沙汰は無事の便り、って言うけどさ、これじゃ生きてるか死んでるかも分かんねえや」

目の前の墓石だって、中身が戻ってくるわけでもないのに。

「騙されてんだよなあ、きっと」

お盆になったら帰ってくるなんて、みんな都合が良いことを言って、騙してるだけなんだ。

「お前だって俺を騙して死にやがって、クソ」

せめて貸した本返してから死にやがれ、と墓石を蹴飛ばそうとしたけれど、バチ当たりだからやめた。

思い切ったところで何も出来ない、誰も見ていなくても何も変わらない。

※この物語はフィクションです

0 コメント

8月12日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

誰かが通り過ぎていった交差点。

知らない人の命と、知っている人との待ち合わせ。

忘れ物の結婚指輪。

ガムシロップのゴミ。

重み。

心が呟いたあの言葉が耳鳴りのように離れないんだ。

助からない命を嘆くことは優しさなのか。報われなかった愛を悲しむことは優しさなのか。

ぼくはやさしくないにんげんだ。

忘れられた結婚指輪に、ガムシロップの最後の一滴を垂らして、自分の傷口を焼いたような気持ちを、思い出せ。

耳を塞いでも消えない。「優しい人になりたい」

※この物語はフィクションです

0 コメント

8月11日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

彼女たちを見てると思うんだ。

生きてくってどれほど難しいことなのかってさ。

なんとなく毎日生きて、缶の発泡酒を飲んで、一瞬だけ寝るような、そんな日々は違うんじゃないかって思うんだ。

つらいけど難しくはない。

しんどいけどできないことはない。

それだけの日々を、比べるのもおこがましく感じてしまう。

必死で生きるような彼女たちの日々が正解で、きっと俺の日々は不正解だ。

そうだと誰か認めてくれ。

俺の日々を正して、連れて行ってくれ。

正しい日々に、連れて行ってくれ。

※この物語はフィクションです

0 コメント

8月10日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

「あの星、光ってるね」

その声はもう遠くにあるのに、すぐ近くで聞こえるように感じる。

忘れないなんて、馬鹿みたいだ。

絶対に忘れないと信じるのも馬鹿だけど、本当に忘れられないことの方が大馬鹿だ。

なんで、忘れられないんだろう。

空を見る度に探してしまう。

声の宛先を探してしまう。

あの声の気持ちに、たどり着かないといけない。

たどり着くまで、歩かないといけない。

今日もあの星が、光るから。

※この物語はフィクションです

0 コメント

8月8日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

ずっと、夢を見ていたような気がしたんだ。

大きな怪獣は町の人たちを踏み潰して、僕は何も出来ずに部屋の中でうずくまっていた。

そんなとき、君は現れて、僕に力を与えたんだ。

僕はその力で怪獣を倒して、町を危機から救う。

そういう物語なんだとばっかり思っていた。

初めから怪獣なんていなかったのだけど。

僕に力なんて無くて、町を危機から救ったりもしなかったんだけど。

「よかったじゃん」君は日差しを一身に浴びて言う。

「俺、お前がスーパーマンだったら友達じゃなかった。友達じゃなくて、従者とか、使い魔とかだったと思う」

差し出されたサイダーの缶はすごく冷たくて、取り落としそうになった僕を見て君はにやりと笑った。

※この物語はフィクションです

0 コメント

8月2日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

どういう仕組みで、あなたは私を信じたのかしら。

私は最初から自分の望むことしか言わなかった。

あなたのことが好きだったのだって、ほんとよ?

それは、今好きじゃないことと矛盾しないでしょ?

あなただって、私の内面なんてこれっぽっちも見ようとしなかったくせに。

見せてくれなかったとか言い訳しようとするのは本当に嫌になる。

私が一度でも信じてなんて言ったかしら。

私のことを否定してくれる頃のあなたなら好きだったわ。

肯定してくれる人が嫌いなんて、なんでこんなに難しい性格になっちゃったのかしら。

最後まで信じさせてくれればなんて、信じさせようとすらしてないのに。

※この物語はフィクションです

0 コメント

8月1日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

病室の窓辺に響いた通告の音を僕は忘れない。

集合体だと思っていた僕らは、僕になって、いつしか個体としての日々を描くことになった。

君といた記憶は夏ばかりだ。

ずっと一緒にいた気がするのに、夏のことばかりが思い浮かんでしまうのだ。

青になる前の信号機。

低く飛んでいく飛行機の音で聞き取れなかった声。

君に一瞬触れた手を、緩く否定されて一年後。

君のいない夏が始まる。

青空、飛行機雲、蝉時雨、夕立。

今年を、最高の夏休みにしよう。

※この物語はフィクションです

0 コメント

7月31日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

このたい焼き屋を始めて、もう三年目になるらしい。

桜通りの土地は高い。サラリーマン時代の貯金がなければ開店さえままならなかっただろう。

もともとは妻のため、いずれできるかもしれない娘や息子のため、新居や学費のためのお金だった。

今ではちっぽけなたい焼き屋を潰さないためのお金になっている。

遺されたものが何をすれば良いのかなんてわからない。

餡子をこねることが、生地を焼くことが、妻のためになるなんて到底思えないのだが、なぜだろう。

忘れたかったのかもしれない。

永遠を誓った相手にさえ満足に接してやれなかった自分を、消し去りたかったのかもしれない。

頭を刈って、コンタクトをつけて、バンダナを巻いて、したこともない接客業を始めて、何が変わったというのだろう。

「いらっしゃい、今日も暑いな」饒舌になった口は、自分の気持ちを隠すようで、無口な頃と何も変わらない。

※この物語はフィクションです

0 コメント

7月30日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

眩暈のような明滅。

切れかけた蛍光灯の下で、僕は人を待っていた。

彼は待っている僕のことを笑うのだろう。

待つことしか能の無い馬鹿だと言ってけなすのだろう。

そう言いながらも彼は必ず来てくれることを僕は知っている。

彼が来たら昔の話をしよう。

まだ僕らが子供だった頃の話をしよう。

彼は必ずやってきてくれるから。

空から槍が降ろうが、ミサイルが降ろうが、彼は必ずここに来る。

蛍光灯は遂に切れた。

※この物語はフィクションです

0 コメント

7月29日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

死んだ人は、成長しない。

連続して増加していたその人は、連続して減少するその人になるのだ。

零に向かう漸近線を、永遠に下り続けることになる。

下がっていく漸近線を、灯火の消えたあとの暗順応を、僕は見た。

輝きの残滓が、僕の視界を揺らした。

漸近線は零にならない。

彼は死してなお、生ける人を惹き付けるのだ。

漸近線は全ての人が残す最後の罪だ。

今日、今ここで死んだとしたら、今日の日は永遠になるのだろう。

今日の日を終わらせるために、今日の日を生きてやる。

※この物語はフィクションです

0 コメント

7月28日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

夏休みについての言説がいろいろと出回っていますが、みんな好きにすれば良いと思うのです。

問題なのは押しつけがましい人で、他人に強制するからおかしなことになるんですよね。

そんなわけで夏が来ました。

私は次の資格試験に向けて順調に勉強を進めています。

キュウリの収穫も順調で、一つも実らなかった去年とは大違いです。

農家の家に育ったのに仕事を手伝わなかったことを今になって後悔し始めました。

お盆には帰れますが、帰っても友人たちはいないんだなと思うと寂しいです。

それでも早く帰って、畑の様子を見たら安心できる気がするのです。

東京は臭くて汚いところだとばかり思っています。

東京に生まれた人は帰るところがなくてかわいそうだなあなんて思うので、今は田舎出身であることが誇りです。

※この物語はフィクションです

0 コメント

7月27日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

現実は砂糖菓子ほど甘くはない。

天気予報でも外れるのに、素人の俺が当てられるほど甘くはない。

そんな苦い衝突が、住所を同じにしてから少し増えた気もする。

君への失望とかよりも、自分への失望が多いのかな。

自分がこんなにテキトーな人間だとは、思っていなかったのだ。

そんなわけで今日も出ていった彼女を、しばらく探していたら夕方になっていたのだ。

夕日が伸びていて、曲がり角の先に見えた影が、君の形をしている。

角を曲がってきた君が、なんだかキラキラして見えて息が止まる。

「探したんだぞ」

たまに甘くなる現実の方が、自分をここに引き留めている気がする。

※この物語はフィクションです

0 コメント

7月26日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

昔から、隠れるのが苦手だったんだ。

かくれんぼをするときは、いつも真っ先に見つかってた。

うまく隠れたつもりになっていても、どこかが陰からはみ出していたらしい。

お母さんと喧嘩して、家出したときも、最初の一言はいつも同じだった。

『あんたの行き先なんてお母さんが分からないわけないんだからね』

私って、そんなにわかりやすいのだろうか。

「探したんだぞ」

角を曲がった先に、息を切らした君が立っていた。

「えへへ、うまく隠れられるようになってたかな」

少しだけ不器用なごまかし方だけど、帰ったらそんな昔話をしてみよう。

※この物語はフィクションです

0 コメント

7月25日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

ビルの隙間から見える空は、今日も青かった。

きっと、今日が終わっても、夏が終わっても、今年が終わっても、晴れた日の空は青いままだ。

青い空を見られる誰かと、青い空を見られなくなった誰かがいるだけで、空が青いのは変わらない。

町中の至る所から警告音が鳴り響く。

この都市の命がもう長くないことを知る。

明日の空が青いことを知る君は、あと数秒で消えるこの町とこの数々の命を知ってもなお生きる。

僕の顛末を知って、君は悲しむかもしれないし、なんとも思わないかもしれない。

明日、空が青かったら、明後日、空が青かったら、一週間後、一ヶ月後、一年後、十年後、空が青かったら。

少しだけ諦めて、あと数日だけ生きて欲しい。

誰かが祈った僕の生を、今度は僕に祈らせてくれ。

※この物語はフィクションです

0 コメント

7月24日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

違う名前で呼ばれることに、慣れたくない自分がいる。

慈悲の心とともに差し出されるミルクを、なめたくない自分がいる。

あのおじいさんも、あのおばあさんも、哀れんだ目で僕を見て、自分の方が偉いと思っている。

そんな人とあの人を比べて、自分の境遇を考えてしまう。

三年前、夕立の中、箱に入れられた僕はあの人を待っていたかのような気がした。

「名前をつけてあげよう」

その人は、優しい声で言った。 

僕を捨てたのはあの人なのに、僕の名前はあの人のつけたものだけしかない。

「今日からうちの子になるんだよ」 

夏なのに冷たい手が、恋しくてたまらないのだ。

※この物語はフィクションです

0 コメント

7月23日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

あの人は最低な人だった。

いつも小汚い服を着ていて、甘いものが大好きな、子供みたいな人。

初めてのデートの時、真夏なのにだだっ広い公園に連れて行かれた。

夕立に逢って、小さな折りたたみの相合い傘で、二人ともびしょびしょに濡れていた。

それでも楽しそうに笑うあの人の顔を見ると、どうでも良くなってしまうのだった。

「それが恋ってやつだよ」

記憶の中であの人が偉そうにふふんと鼻を鳴らす。

「ほら、君も笑ってる。それが恋だ」

目の前でアイスコーヒーを飲み干すあなたに、彼の話をしたらきっとふてくされるんだ。

そんな姿を想像しながら笑う私は、きっと恋をしているんだよ。

※この物語はフィクションです

0 コメント

7月22日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

蝉の声を今年になって初めて聞いたのは、あの子に会いたくなかったからだ。

学校の帰り道、あの子の家の前を通らないように、公園の中を通り過ぎる。

公園になんて滅多に来なかったから、蝉の音さえ忘れていた。

あんなにうるさく、何が悲しくて蝉は泣くのだろう。

どうしても聞いて欲しくて、あの子に電話をかける振りをした。

「君に蝉の声を聞かせたいと思ったんだけどさ」

「けど蝉がうるさすぎて君の声のほうが聞こえないや」

「えへへ、ごめんね。ありがとね」

何が悲しくて、蝉は泣くのだろう。

僕の中の蝉時雨。

※この物語はフィクションです

0 コメント

7月21日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

今年になってからお姉ちゃんが少しだけ優しくなったことに、彼はどれくらい気づいているのだろう。

まだ拙いピアノの旋律は、春と比べて大分うまくなった。

それまでは真面目に聞いた事なんて無かった。

私にとって高校生活最後の夏は、彼にとっては最期の夏。

受験勉強をしないといけないと思っていても、ピアノの音を聞いてしまう。

彼だけじゃない。家族みんなにとって最後の夏なのだ。

少しずつ上達していく音色は、あるところでもう上達することはなくなる。

蝉時雨が騒がしいのは、短命だからなのかもしれない。

その蝉時雨を、彼はいつものようにうるさいと思いながら聞いて、ある日を境に聞くことができなくなる。

ピアノの音を聞きながら、一瞬で過ぎてしまう夏を考えている。

※この物語はフィクションです

0 コメント

7月20日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

昔から、一番欲しいものは手の届かない場所にあった。

限定衣装のお人形は、買ってもらえないまま。

本当に欲しいものの前で良い子でいてはいけないと、代わりが用意できなくなってから気づくのだった。

そんなことを思いながら、私は彼女の背中のファスナーを閉める。

私の欲しい気持ちは、いつも遅れてやってくる。

「どう? 私綺麗に見える?」

ええ。とっても綺麗よ。世界で一番綺麗。

どうして、欲しかったと思うものほど、手に入れられないのだろう。

気づくと私は、後ろから彼女を抱きしめていた。

「ありがとう」と、そう言う彼女の声が一番近くで聞こえて、私は彼女のドレスを汚してしまうのだ。

※この物語はフィクションです

0 コメント

7月19日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

宣告された期日は、もう過ぎてしまった。

それでもその子は遊びに来ていた。

現実を告げるのには幼すぎる彼女。

僕の手が動かないのを見て、それでも笑う僕に何を思ったのだろうか。

さほど長くない人生の中で、誰かの死を経験することはあった。

彼女のまだ短い人生の中で、この瞬間はどのように映るのだろう。

「元気になったら、また遊ぼうね!」

無邪気な声は確かに、僕の中の終わりかける命を響かせる。

その声が吸い込まれてしまいそうな青い空の下、彼女がいるのが遠くに見えた。

その姿を見下ろした僕は、あらん限りの力を込めて、できるだけ大きく手を振った。

※この物語はフィクションです

0 コメント

7月18日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

インスタントは嫌いだった。

買い物に出られなくて、仕方なく三分間を待っている。

この部屋に傘はない。

あの傘は、君のものだったから。

健康を気遣う相手がいなくなって、その置き土産は、著しく不健康だった。

小言ばかりの私。それでもトマトは食べられない私。不完全な私。

「私の料理、下手だったのかな」

料理が上手ければ、洗濯を毎日やれば、掃除をサボらなければ、小言が少なければ。

「傘、買っとかないと……」

雷の音が鳴って、耳をふさいだ自分が、心の底から大っ嫌いだった。

※この物語はフィクションです

0 コメント

7月17日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

僕の原材料はプラスチックで、プラスチックを固めたのが僕。

お菓子のおまけでついてる戦隊ヒーローのロボットのおもちゃ。

超合金じゃないし、百円程度なのにお菓子の方が主役だ。

もっというと僕は、ロボットよりももっとかわいいものの方が好きだった。

なるんだったら手鏡とか、コンパクトとかになりたかった。

僕を買った君。僕をこっそり買い物かごに入れてバレないことに成功した君。

僕にとって唯一の君は、きっと僕が手鏡だったら買ってない。

超合金だったら出会えていない僕は、自分が百円でよかったと心の底から思う。

もし誰かが僕を知ったら、君に縛られてかわいそうだと言うのかな。

そんなふうに君をおとしめるようなやつは、僕のロケットパンチでやっつけてやるから。

※この物語はフィクションです

0 コメント

7月16日 今日のエモい情景

【今日のエモい情景】

僕の記憶力なんてすごく悪いからさ、君がいろんなことを忘れちゃっててもおかしくないと思うんだ。

僕が告白をしたときのこと。君は最初薄く笑って、それからはにかんで、全てを理解したみたいに笑ったんだ。

記憶力が悪くても、僕はあの時のことは忘れなかった。

人間の顔は皆同じように見えてたけど、君の表情だけは数え切れないほど在るんだなって思えた。

炎天下の中会社から家まで歩いたことも、忘れちゃってるのかな。

汗ベッタベタでさ、それでもタクシーを呼ぶ金なんてなかったから、しりとりしながら歩いたんだ。

君とお別れしたとき、青い空が綺麗で、崖の方を向いた君がこっちを振り返って言った言葉、聞き取れなかった。

君を幸せにできなかったこと、申し訳なく思ってたけど、なぜか君の選んだことが間違ってたとは思えないんだよ。

天国には季節なんてなくて、常に適温なんだろうな。

覚えてる? 夏が暑かったこと。

※この物語はフィクションです

0 コメント